「無」から「有」を生み出す東洋思想
東洋思想イメージ

まえがき

「涅槃寂静の世界」とは、人間の一切の分別が否定された「無分別」の世界で煩悩や執着は滅却し、絶対的な静寂の「無」の境地なのですが、これで終わるのではなく、「混沌」を介して自由な境地での新たな創造が萌芽・成長するプロセスを内包しているのでした。

そしてこの人間の作為や分別が否定される世界や新たな創造が生まれる世界では、「偶然」が大きな役割を果たすのでした。

この「無作為」・「無分別」の世界から新たな創造が生まれる世界への移行は、まさに「無」から何らかの形態を有する「有」が生まれるプロセスなのです。これは鈴木大拙のいう「無分別の分別」ということなのでしょう。

これを実践する仏教の方法は、ひたすら修行に励むことで、この「無分別」の世界の一部を体験し、この経験をよりどころにして分別を試みることなのでしょう。

この「無分別」の世界とは、人間が可能な分別を単に停止しただけの世界ではないはずです。これは人間の能力をはるかに超えた自然の理による分別の世界であると考えられ、あるいは人間の能力では認識できない未知との遭遇の世界すなわち偶然の世界と表現することもできるのでしょう。

人間は自然に対してもっと謙虚であるべきなのです。自然が創り出した人間を含む動物や植物の仕組みの細部に関しては、まだまだ未知の世界なのです。人間の能力ではわからない自然の理を少しでも把握するためには、自然に従うことなのです。これを現代風にいえば、実験をすることなのです。

すなわち人間の直観をよりどころにして試行錯誤で実験を数多く繰り返すことなのです。この中で自然の理に合致するものがあれば、何らかの結果が得られ仮説が実証されるのです。これを効果的に行うには、人間の能力をはるかに超えた電脳の記憶と演算能力が必須になるのです。

このホームページのメインテーマである「自然科学から生まれる花園」では、数学における決定論的カオスの状態すなわち人間の能力では捉えることのできないサイコロを投げた状態を模した場において、電脳の能力を借りて「分別(分節)」の仕方を試行錯誤で試みると、すでに考察した「自己相似集合」すなわち「個と個」や「個と全体」が相似な構造を根底にもった形象である、「華厳経の風景」で展示したようないろいろな形の花模様が現れるのでした。

これは何を意味するのでしょう。これは「無」から「有」を生むプロセスと考えられます。そして手前勝手に解釈すれば、「重重無尽」の縁起を背景にした自己の究明の結果としての境地そのものといえると思うのですが。

ちなみに、「自然科学から生まれる花園」は、「老子」の思想の核心ともいえる、「無為自然」の「道」から生まれる花園と解釈することもできるのです。

「自然」とは「ありのままの姿」であり、「おのずからそうなる」の「実相」そのものなのです。コインを空中に投げてその結果として、表が出れば表に従い、裏がでれば裏に従うことなのです。これは神にとっては「必然」の現象なのでしょうが、人間にとっては「偶然」なのです。

ところで「無分別」すなわち「偶然」の世界では、人間は何もしなくてよいのではと考える傾向がありますが、それでよいのでしょうか。不確定の世界だからこそ、開かれた自己であり日々の勉強が必要なのです。

老子の説く「無為」とは「何もしないこと」なのでしょうか。そうではなく、人間の作為を無にして、自然をありのままに観察して、その自然を規範とすることなのです。

「涅槃寂静の世界」ですでに考察していますが、「偶然」に対処する方法はあるのです。その基本は「中立(中道)」を維持することなのです。そして「無常」の変動する世界でこの中立を維持するには、固定的・物質的なハードウエアよりも変幻自在に変わりうる動的なプロセスとしてのソフトウエアを重視するということです。仏教で説く物事に執着しないということに相当します。

電脳は、柔軟性・高速性に優れ、自然界のダイナミックなプロセスを扱う能力は抜群であり、かつ自然界で未知との遭遇の機会を増大するには、実験を試行錯誤で数多く繰り返すことなのですが、このような操作にも不可欠なのです。

仏教などでなじみのある東洋思想を現代に生かし、共感を得るには、電脳の能力を活用することだと私は思っています。今回のテーマでは、電脳の能力を活用した「無」から「有」を生み出すプロセスとしての観点から、東洋思想を見直してみようと考えています。

2011.10.19