未知との遭遇

自然の成り立ちの歴史から見たら、無に等しい100年足らずの人生を、人間があくせく動き回っているのは、結局のところ何らかの「発見」に胸を躍らせ、そしてさらなる「発見」を期待してのことなのでしょう。

いままでこのホームページで悪戦苦闘してきたことは、電脳によっておのずから生み出される「華厳経の風景」のような画像の生成に関して、仏教思想と相性が良いのではという私の思わくから、両者の比較検討を続けてきたのでした。

この間の半ば頃から気付いたことは、仏教思想を、「これあるとき、かれあり、これ生ずるとき、かれ生ず、・・・」というような、因縁とその結果がわかっている通常の「縁起」のみで一切を説明するのは、少し物足りないと思うようになったのです。

人間が分別できる事柄は、自然の「理」に比べたらまだまだ少ないのです。「覚り」の境地ともいうべき人間の分別が全く通用しない、「未知との遭遇」というような、因縁がわからない当然結果もわからない、きわめて特異な「縁起」の観点からの研究や検討は、いがいと少なくもっとこれを重視したほうが、今後の仏教の進展を考えたとき、有益ではないかと考えたからです。

これは「無」から人間が認識でき活用できる何らかの「有」を生み出すことに相当します。

全く未知の状態を分別することは、通常では不可能です。ただし分別しないと「有」は生まれません。まさに禅問答の世界なのです。この禅問答の回答を求めることがこのシリーズのテーマです。この辺の事情を以後何回かに分けて、東洋思想から考察していきたいと思っています。

この考察にあたって参考にする主な文献は、言語学者でかつきわめて多くの外国語を研究し、それぞれの国の文化・思想を十分に把握した上での東洋思想や仏教の研究の著書も多い、井筒俊彦の「井筒俊彦著作集」(中央公論社)のうち第六巻「意識と本質」(1992年10月)と第九巻「東洋思想」(1992年8月)を用います。

「未知との遭遇」とは心の問題

未知との遭遇の機会を増やすには、昔は探検とか、冒険とか自分の体を動かして未知の情報を探す必要があったのですが、現代の情報化時代では情報のほうから飛び込んで来るので、要はそれらの情報を如何に受け取るかが肝要なのでしょう。

そして未知との遭遇といっても、自分にとっては全くわからないものと出会っても、そのまま通りすぎてしまったら何にもなりません。最小限それがきわめてわずかでも自分に関係するものであると気付く必要があるのです。

すなわち自分にとって全く無関係な情報だと思っていたのが、ある時空で自分にとって何らかの関係があると気付いたときが、「無」から「有」が生まれることと解釈することもできます。

「無」から「有」を生み出すとは、自己が如何に心を開いて情報を自分のものとして消化し、自覚を高めるかなのです。このように「未知との遭遇」とは、自己の心の働きの問題なのです。「意識」の働きとは、自分に何らかの関係がある情報であることに気付く内面的な精神活動ともいえます。

井筒俊彦の「意識と本質」の始めの箇所には、『経験界で出会うあらゆる事物、あらゆる事象について、その「本質」を捉えようとする、ほとんど本能的とでもいっていいような内的性向が人間、誰にでもある。・・・われわれの日常的意識の働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の「本質」認知の上に成り立っているのだ。』とか、『「本質」またはそれに類する概念が、言語の意味機能と人間意識の階層的構造と連関して、著しく重要な役割を果たしていることに我々は気付く。』と記しています。

「無」から「有」を生み出すとか「未知との遭遇」をするためのプロセスを考えるときには、まず「本質」とか「意識の階層的構造」とは何なのかを究める必要があるのです。

井筒俊彦の日常的経験の世界と「マトリックス」の世界

ここでは井筒の「意識と本質」のきわめておおざっぱな導入部としての内容を紹介します。

我々が生活している日常の世界で、大部分を占める普通の人間すなわち凡人にとつては、目で見て肌で感じている客観的事物の存在性について、普通は特に疑問を抱くことはないのです。

例えば、花と石を見てこれを「言葉」で区別するためには、少なくとも素朴な形で、花と石とのそれぞれの「本質」が了解されていなければなりません。 意識の働きとは、個々の存在の「本質」を喚起する「言葉」の意味に基づいて、その存在を他の一切の存在から区別して認識することなのです。我々は生まれ育つ過程で母国語の意味論的システムをごく自然に習得するので、この「言葉」によって一切の存在を区別して、世界を眺めているのです。

すなわちこの日常的経験世界では、それぞれの存在の「本質」を喚起する「言葉」で区別された出来合の世界が文化的枠組みとして与えられているので、普通の人間にとっては、「言葉」によって支配される世界でもあるのです。

さてここで話は少し変わります。以前「仏教思想と自己相似集合」のテーマで何回か考察していますが、映画「マトリックス」の世界の話です。

この世界は、我々の日常的経験世界と全く同じように、一見普通の人間が毎日あくせくと日常生活を送っているかのように見えるのですが、実は電脳によって人間の「識」が全てコントロールされている世界なのです。

具体的には、人間は等身大のカプセルの中で、頭脳に取り付けられたプラグを介して、電脳によって「識」のみが制御されて、生まれてから死ぬまで一生涯、夢を見続けている世界なのです。

電脳は、2進数の配列すなわち「言葉」の論理によって動作する機械であり、電脳の記憶装置の中に、井筒のいうある人間社会の文化的枠組み機構として形成された「本質」体系、すなわち存在文節(区分)体系が設定されていれば、仏教でいう「唯識」思想の応用として、あたかも日常生活を送っているかのような「妄念」を、電脳によって起こさせることは可能なのかも知れません。

広領域の東洋思想の中で、特に仏教思想は、「本質」論や「言語」に関しては否定的であり、本当はありもしない「本質」を、あたかも実在するかのごとく仮構して、それに基づいて様々な事物を固定化する意識の働きを「妄念」とか「妄想分別」と呼んでいます。

この映画「マトリックス」が教えるところは、この世界で生活している多くの普通の人たちは、これが現実の世界だと思い込んでいるからこそ、日常的(常識的)な行動しかできないということなのです。ところがほんの一部の人は電脳によってあやつられている仮想(夢)の世界であることに気付いているからこそ、何らかの訓練(修行)によって、普通の人では考えられないような超能力が発揮できるのです。

真実の世界に気付いているかいないかで、物の見方すなわち視点が大きく変わるということです。

電脳によるバーチャル・リアリティの世界を単に「妄念」の世界と片付けるのではなく、これが日常的経験世界に及ぼす影響を真剣に考えることこそ、この世界での「未知との遭遇」の機会を増大させ、かつこの世界でより積極的でより創造的な生き方ができるのです。

2011.11.7