「無分別の分別」の現代版、iPS細胞

鈴木大拙の「無分別の分別」の具体的な意味や「「無」から「有」を生み出す東洋思想」を考察するにあたって最もふさわしい最近の話題は、京都大学iPS細胞研究所長の山中伸弥教授が発見したiPS細胞でしょう。

今回はこの21世紀の最大の偉業といわれるiPS細胞に関する知見と、東洋思想の「無」と「有」や「無分別」と「分別」との関係を比較して考察したいと思います。

iPS細胞についての知識は、iPS細胞の生みの親である山中伸弥教授とノーベル物理学賞を受賞した益川敏英教授の対談形式で書かれた書籍「「大発見」の思考法」((株)文藝春秋、2011年1月)を参考にしています。

この本のp13〜24の要点を断片的に引用させていただき、東洋思想と比較するために必要なiPS細胞の最小限の知識について以下記します。

母体(マトリックス)での生命誕生とiPS細胞

たった一つの受精卵の細胞が母胎の中で細胞分裂を繰り返し増殖していきます。この増殖の過程で心臓、肝臓などの臓器、神経、筋肉、皮膚など、それぞれに異なる形や機能を持っ細胞(体細胞)に分かれていきます。生物学ではこれを「分化」と呼んでいます。

哺乳類の場合いったん分化して臓器や組織に成長した体細胞は、もう二度と受精卵のような未分化の状態には戻れないと考えられてきたのですが、1996年イギリスで世界初の体細胞クローン羊が誕生して以来、一度分化した体細胞が時間をさかのぼり、未分化の状態に戻れることがわかったのです。

このように未分化の状態に戻すことを、「初期化」とか「リプログラミング」と言っています。

山中教授が創りだしたiPS細胞(induced Pluripotent Stem cell, 人口多能性幹細胞)は、皮膚などの分化した体細胞を、受精卵のような未分化の状態に戻して、身体のあらゆる体細胞に分化できる能力を持った万能細胞のことです。

人体の構成部品の設計図を収録した「遺伝子」という本

人間の身体は、細胞分裂(分化と複製)を繰り返し最終的に60兆個の細胞からできていると言われていますが、これらの細胞はおよそ200種類のそれぞれ異なった形や機能を持った体細胞に分化しています。そしてこの体細胞は身体を構成する部品に相当するのですが、個々の部品を作るにはその設計図が必要となります。

この60兆個の細胞のすべてが、それぞれ約3万ページもある身体を構成するすべての部品の設計図ともいうべき遺伝子を持っているのです。

このことはどの細胞でも他の細胞に変わりうる可能性をもっということを意味するのです。ただしこれは逆に大きな混乱を生む原因にもなるのです。

細胞にはすべての設計図があるのに、なぜ形や機能が特化した細胞に分化していくかは、すべての設計図の中のどのページを読むかによって決まるのです。どのペ−ジを読むかは、本の栞(しおり)の役割をする遺伝子の中の「転写因子」と呼ばれる一群のタンパク質によって指示されます。

ただしこの指示を間違えて別のページを読んでしまったら大変なことになるので、ダブルチェックのために、読む必要のないページは、真っ黒く塗りつぶしてしまうのです。つまり「分化」というのはガチガチに固定してしまうことなのです。

ところでまさに奇跡としか表現できない現象があるのです。生命の誕生、つまり精子と卵子の受精の瞬間です。精子も卵子も非常に高度に分化した細胞ですから、あちこち真っ黒に塗りつぶされています。これらの細胞が出会って受精卵になった瞬間に、真っ黒に塗りつぶしていたインクが消えて、すべて隠されていた文字が現れるのです。

iPS細胞を作るには、この生命誕生の瞬間の奇跡を起こす必要があるのですが、3mm四方の皮膚を培養用のシャーレに入れ皮膚細胞を培養して増殖した後、そこに特定の四つの遺伝子(山中因子)を入れ込み培養すると、部分的にiPS細胞に変わり、以後この細胞だけが増殖するという発見をしたのです。

以上のiPS細胞の知識によって、下に表示する 表1.「無分別の分別」とは何か、の左側を埋めることができました。以後はこの表の右側の部分、東洋思想について記載します。

表1.「無分別の分別」とは何か
「無分別の分別」とは何か

「無」= 白紙(未処理)の状態

「無」に関して井筒は、第九巻「東洋哲学」の中のそれぞれのテーマの中での、いろいろな箇所で様々な故事来歴を基に多面的に説明されています。そのため私のような凡人には「無」の適切な定義としてどれを引用していいのか迷うのですが、私の一番好きな箇所である「文化と言語アラヤ識」の文章の一部を以下に引用します。

『「道は隠れて名無し」(道隠名無)と老子はいう(「老子」上、四一)。「無名」の境位における「道」を、彼は樸(あらき)に譬える。樸は、これをいろいろに裁断して、始めて様々な器物になる。それらの器物は、それぞれが特殊な「名」をもつ。根源的一者が散じて、現象的多者になるのだ(上、三二)。「無名」の根源から「有名」の現象世界へ。まさに言語的意味分節理論の原型である。

ここで樸は、手を加えていない原木のことで、用途として無限の可能性があることを意味します。

そしてこれは「無」(老子のいう「道」の境地)から「有」(日常的経験世界、井筒のいう「言語的意味分節理論」の世界)への移行の説明でもあるのです。

すなわち「老子」の思想では「無」=「道」=「無名」=「樸」なのです。井筒の記述のいろいろな箇所での説明を参考に解釈すると、「無」とは、白紙の状態なもの、未処理の状態なもの、特化されてないもの、混沌とした不確定なものであらゆる形や機能を生み出す可能性のあるもの、などの言葉がイメージできます。

それではiPS細胞の特徴である「一切の身体の細胞の設計図にアクセスできる状態」がなぜ「無」に対応するかといえば、白紙(未処理)の状態であるからです。具体的には、机の上に沢山の本が積み上げられている状態は、あらゆる知識をそこから読み取ること(アクセス)ができる可能性があると言うだけで、それらを実際に読まなければ、無いのと同じことなのです。

すなわち「無」とは白紙(未処理)の状態の意で、「未分化」すなわち「無分別」と同じ意味と私は解釈しています。

また上記の引用文にも記されているように、「無」は根源的に「一」なのです。華厳思想でいう「一即多」の「一」なのです。これは一つの受精卵の細胞に相当します。

至難の業の「無分別の分別」

電脳では、「無」とか「無分別」すなわち「未処理」の状態に初期化するには、「リセット」とか「クリア」ボタンを押せばそれで済むことなのですが、人間の場合には心さらには肉体をリセットして、元の状態に戻すことはかなり難しいのです。

「無分別の分別」を実践することに関して、井筒はどのように記述しているかを、第九巻「東洋哲学」の「事事無礙・理理無礙−存在解体のあと」の文章の一部を以下に引用します。

『「畛(しん)」すなわち事物相互を存在論的に分別している境界枠を、「はずす」とか「はめる」とか、口で言えば、すこぶる簡単なことのようですけれど、実際には非常にむつかしい。特に「はずす」ことがむつかしい。とても普通の人に出来るようなことではありません。ましてや、「はずしてはめる」、しかも両方を同時に行うことなど、問題外です。』

「畛」とは、荘子の言葉で、田んぼのあぜ道のことですが、事物相互間の境界線のことであり、これを「はずす」とは分別しない前の状態すなわち無分別の状態にさかのぼることです。そして「はめる」は分別することです。

「無分別の分別」は口で言うほど簡単ではないのです。この「無分別の分別」の実例を下図(図1)に表示します。

「無分別の分別」の実例
図1.「無分別の分別」の実例

比較的容易なのは、(B)の金属の場合で、製品を溶解すれば、存在解体が可能で、それぞれ異なった個体を融合し一体化した素材に戻すことが可能です。ただしいろいろの金属で出来ている製品の場合には、それぞれの金属に分離・抽出することは、けっこう難しいのです。

このように、存在解体した後に新たな製品を生み出すことを現代では再利用(リサイクル)と呼んでいます。

井筒は、「畛」的枠組みを一度取り外しそしてまたはめて事物を見ることを、東洋的思惟形態の一つの重要な特徴であると記しています。

現代のわれわれ東洋人にできることは、「無分別の分別」の智慧を現代社会にどのように生かすかを、真剣に考えることだと思います。

同じ文献の「一の五」では、「老子」の『天と地と間(全宇宙)にひろがる無辺の空間は、ちょうど(無限大の)鞴(ふいご)のようなもので、中は空っぽだが、動けば動くほど、(風が)出てくる』の一節に関連して、『「空」(すなわち「無」)が「有」の極限的充実に転成し、ついには、ありとあらゆる存在者を可能態において内包する「蔵」(「胎」)、一切の存在論的可能性の貯蔵庫のごときものとして形象化されるに至ります。』と記しています。

図1.(A)は、人体が形成される根源としての「胎」の機能を基盤にして、形成された人体のごく一部から、これらが形成される以前の「未分化」の状態のiPS細胞を培養し、これによる人体が損傷したときの再生医療の可能性を示しています。

これは「有」の状態からいったん根源としての「無」にさかのぼり、そして新たな分別を実現したのであり、「無分別の分別」の典型的な例と言えるのでしょう。

2011.11.20