ジャクソン・ポロックの作品は、「無」からの創造

2012年2月21日のNHKテレビ、クローズアップ現代の話題は、由紀さおりさんが歌う日本語の歌が、なぜ今、日本語がまったくわからないアメリカの一般人に爆発的に流行したか、についてでした。アメリカの現地人のインタビューでは、日本語の美しさを称え「夏のそよ風が感じられる」とか「海が見える」などの自然の情景が見えるというものでした。

専門家の解説では、由紀さおりさんの日本語の歌声は、「言葉の向こうにある世界」を表現しているということでした。

これを井筒俊彦の「意識と本質」論で解釈するならば、由紀さおりさんの日本語の歌声は、深層意識を呼び覚ます高次(異次元)言語ということなのでしょう。異次元とは「言葉以前」の世界、メタ言語ということです。

「涅槃寂静の世界」では、仏教思想とアンフォルメル芸術との関連を詳細に検討していますし、またアンフォルメル芸術の代表的な画家であるジャクソン・ポロックとの関連についても考察しています(「仏教から見たアンフォルメル芸術」、「「涅槃」=「混沌」=「墨流し」」、「「具象でもなく抽象でもない」絵画」)。

今年はジャクソン・ポロックの生誕100年にあたり、東京国立近代美術館で「ジャクソン・ポロック展」を、日本ではかってない規模で国内外の作品を集めて開催しています(2月10日〜5月6日)。

そこで今回は再度ジャクソン・ポロックの作品を、井筒の「意識と本質」論の立場から考察したいと思います。

「有」からの誕生と「無」からの誕生との大きな違い

前回の後半で考察した、なぜ「無」から「有」を生み出さねばならないのかを、現代の日常感覚で考えてもきわめて重要な意味があるように思えるので、ここで再度考察します。

「私、生まれも育ちも、葛飾柴又です」は寅さんの口上ですが、「有」から「有」が生み出される場合には、どうしても最初の生まれる元となる「有」の素性すなわち「生まれ」が、生まれた後の「有」自身は当然ですが、特に他者からの評価に大きく影響するのです。

寅さんの性格には、一生涯 ”葛飾柴又”が付きまとうのです。以上は人間の「生まれ」についてですが、これは事物の「生まれ」についても同様のことが言えるのです。

このように「有」から「有」が生み出されるという思想は、「まったく予知のできない画期的なものを生み出すこと」の観点からは、大きな障害になるのです。ここに「無」から「有」が生まれる決定的な利点があるのです。

ジャクソン・ポロックの作品をどう解釈するかは、西洋の多くの芸術家や評論家が試みているようなのですが、十分に納得がいく解釈には未だ遭遇していません。

実は私はアンフォルメル芸術を仏教思想で解釈したいきさつもあって、ジャクソン・ポロックの作品は東洋的な「無」から創造されたものだと考えられ、東洋思想で解釈したほうが適切であろうと考えています。

当然、アメリカのワイオミング州で生まれ、ロスアンゼルスやニューヨークで絵画の勉強をしたジャクソン・ポロックの作品を、なぜ東洋思想で解釈しなければならないのかという反論も起こるのでしょう。

ただし初めに考察しているようにこのような考え方自体が、ポロックの作品を適切に解釈できない最大の理由だと私は思っています。

これはポロックの作画技法にしろ、そこから生まれる作品にしろ、それまでの西洋絵画の流れとは全く異なる画期的なもので、西洋思想のみで解釈するには多少の無理があるのです。

ポロックの作品と深層意識に顕現する存在構造

ジャクソン・ポロックに関する知識は、エリザベス・フランク著、石崎浩一郎・谷川薫 訳「ジャクスン・ポロック」((株)美術出版社、1989年8月)を参考にしています。この書の中に「ポロックの言葉」という章があり、ポロック自身の言葉がまとめて掲載されており、今回はこの言葉をよりどころとして考察を進めます。

そしてアクションペインティングとオールオーヴァ・スタイルが確立した以後のポロックの作品が何を意味しているかを考えるために、井筒俊彦の「意識と本質」や「東洋哲学」で記述している深層意識に顕現する存在構造について簡単に紹介しながら、ポロックの言葉との対応を考察していきます。

『私は ”抽象表現主義”など気にかけない。・・・それにたしかに”非具象派”でも”非描写派”でもありません。一時期はかなり具象派であったし、いつも幾分かは具象的な部分をもっていますから。結局、無意識から描くとき、形象は必ず現れてくるものなのです。われわれはみなフロイトに影響されているのでしょう。私は長い間ユングの徒でした。・・・絵は存在の一状態であり、・・・絵は自己発見です。すぐれた芸術家はだれでもあるがままの自分を描いているのです』(「ポロックの言葉」から引用)

上記のポロックの言葉からして、ポロックの作品を東洋哲学で評価することの妥当性を示しています。すなわちポロックは外界の対象(存在)を描くのではなくて、自己の内面において無意識(深層意識)の状態下で現成した存在の一状態を具象的に描いているのです。

これを井筒の「意識と本質」論でいうならば、自己の深層意識に現出する存在風景を描いているということです。自分自身の内面の深層をどこまでも追究し、表層的「自我」から深層的「自己」への転換が、自己の発見であり、これが東洋哲学の大きな特徴なのです。

ポロックは若い頃からアルコール中毒の治療のため精神科に通院しています。特に1939年から43年頃の間はユング派の医師のもとで精神分析による治療をしています。これがポロックの技法や作品にどの程度影響をしたかは、定かではないのですが、精神分析的心理療法を受けているからには、感情の起伏を抑え、心の落ち着きを得るために、無心になることや深層意識を目覚めさせるための実践的な訓練には習熟していたと考えられます。

深層意識を深めていったときに現成する存在構造とは何かについては、井筒は詳細に検討し記述していますが、ここではその中の文章を断片的に引用し、簡単に紹介しながら考察します。

日常的に経験する意識を表層意識といいますが、この意識の働きは、個々の存在の「本質」を喚起する「言葉」の意味に基づいて、その存在を他の一切の存在から区別して認識することなのです。

つまり表層意識で認識される存在の世界は、一切の事物がそれぞれの「本質」によって固定された、いわゆるはっきりとした輪郭線によってそれぞれ他から区別された世界です。これが日常見慣れている物質的世界です。

ところが、人が何らかの精神的な訓練により内面的に観想状態に入り、意識の深層が深められていくにつれ、今まで見慣れている、それぞれの「本質」によって拘束されている事物が、次第に拘束が解かれて流動性を帯びてきます。流動性を帯びるとは、事物を事物として成立させている「本質」による拘束を無化して、いわゆる相互間の境界線を取りはずして事物を見るということであり、これが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴だと井筒は記しています。

すべての事物の輪郭がぼやけ相互に浸透し合い、流動的、浮動的な未定形性を示す事態になるのです。これが荘子のいう「渾沌」でありまして、その流動的でダイナミックな存在構造が、同じ中国で発達した仏教の華厳哲学で、「事事無礙法界」という形で現れるのです。

ポロックの作品は、何か特定の対象を抽象的に描くのではなく、彼の深層意識に顕現した荘子のいう「渾沌」の事態、流動的でダイナミックに変動する全存在構造を、オールオーヴァのスタイルで不規則な曲線の集合体の空間構造として、具象的に描いているのです。

「「涅槃」=「混沌」=「墨流し」」で考察してますが、混沌には「不規則で予測不可能」と隣り合わせに「何らかの秩序の美」が表裏一体として存在するのです。

一般にポロックの作品を「抽象表現主義」と呼んでいますが、ポロックは深層意識に顕現した「渾沌」の構造を、身体を働かせて具象的に描いたのです。まさに西田幾多郎のいう「行為的直観」で描いたのです。

ポロックの作画技法は、作品と一体になること

『私の絵はイーゼルから生まれてくるのではない。・・・床の上だとずっとのびのびできるからだ。このやり方だと、絵のまわりを歩き、四方から制作し、文字通り絵のなかにいることができるのだから、わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じられる。これは西部のインディアンの砂絵師たちの方法に近い。・・・自分の絵のなかにいるとき、自分が何をしているのか意識しない。いわば ”なじんだ”あとになってはじめて自分が何をしていたかを知る。』(「ポロックの言葉」から引用)

深層意識が深まると、一切の事物を成り立たせる相互間の境界線がなくなり、相互が浸透しはじめると書きましたが、これは自己(意識)とその対象(作品)との境界もなくなり、相互が浸透することを意味します。

日常的な表層意識では、自己(意識)とその対象(作品)は、自己(意識)から離れて、その向こう側に独立して存在する客観的対象であり、主・客対立的関係にあるのです。これがジャクソン・ポロックの技法が確立する以前の西洋絵画の描画方法、すなわちイーゼルを自分の前に立て、そこにカンバスを置いて描くことなのです。

ところがポロックはイーゼルを用いず、砂絵師が地面に色砂をまきながら絵を描くように、作品のなかで一体となって描き、そのとき「自分が何をしているのか意識しない」のです。

深層意識が深まると、主も客もともに巻き込んだ渾然たる一切の事物全体の相互浸透構造が現成するのです。これは東洋哲学でいう「無」の直前の境地であると井筒は記しています。

これは対客体的主体から脱自的(無心的)主体に転成することを意味し、前項で記述した表層的「自我」から深層的「自己」への転換であります。これは東洋哲学での「天地と我とは同根、万物は我と一体」という自己が自己を含めた万物を「平等無差別」に見る境地であり、これが真の自己の発見なのです。

ジャクソン・ポロックの作品のオールオーヴァ・スタイルの空間構造は、均等的、均質的であり、中心が存在しない無中心構造なのです。

またポロックの作品の空間構造につきまとう明暗は、対立するものでなく、融合するように構成されています。色彩的な表現に関しても、明暗の対比を緩和するように配色されているのです。

以上のようにポロックの作品は、「全体が部分であり、部分が全体になっている」のです。これはまさに「天地と我とは同根」の境地であり、私が長年仏教思想と対比して考察している自己相似集合図形と同じなのです。

作品の「生まれ」がわざわいしたジャクソン・ポロックの苦悩

以上の考察のようにジャクソン・ポロックの作品は、「無」からの創造だったのですが、当時としてはこの作品の「生まれ」が逆に大きなわざわいを招いたのです。

アメリカの多くの一般人には、カンバスにペンキをまき散らして生まれた作品を芸術とはまったく理解できなかったのです。

また西洋思想では、コスモス(秩序)とカオス(無秩序)とは対立関係にある訳で、一見カオスのような作品にたいして「うさん臭い」、「まやかし」という嫌悪の感覚が生じたのでしょう。

ポロックの作品がアメリカで注目されればされるほど、一般大衆向けのジャーナリズムからバッシングを受けたのです。1950年頃からポロックは再びアルコール依存症の泥沼にはまり、1956年8月の夜、飲酒運転で木に激突して死亡します(享年44歳)。

一方「無」から「有」を生み出す東洋思想では、「無」の境地ともいうべき深層意識を重視する傾向にあり、書道や水墨画、墨流しなどの技法も大いに発展し、「渾沌」すなわち朦朧体(もうろうたい)には古くから慣れ親しんでいるのです。だからこそ西洋発のアンフォルメル芸術なども容易に理解できるのです。

日本語がまったくわからないアメリカの一般人が、由紀さおりさんの日本語の歌声に、大きな感動を覚えるのと同様に、ジャクソン・ポロックの作品も深層意識を呼び覚ます高次(異次元)言語なのです。

2012.3.4