「意味不明」でも心に感じる形象 =「意味可能体」

前回考察したように、「無」から「有」を生み出すためには、「意味不明」を克服する能力、洞察力を必要とし、凡人には不利なのです。

そして近代までは、まさに天才の独せん場だったのです。ところが現代は電脳の発展により、凡人でも複雑な「出来事」の理解が可能となり、これを思考することが可能となったのです。まさに現代は凡人の時代なのです。

このHPを立ち上げて以来、柳 宗悦(むねよし)を何回にもわたって取り上げたのは、近代以前、凡人が天才にどのように対抗できるかを、考察したかったからです。

今回からは、凡人でも「無」から「有」を生み出す方策を模索していきたいと考えています。

「意味不明」でも心に感じる事物

学術に関する事物は、「意味不明」だと成立しませんので、凡人はひたすら努力と幸運に期待する以外に方策はなかったのですが、これとても現代では、電脳によって「意味不明」な事物を解析する手法はいろいろ考えられ、電脳を活用することで大きな成果が得られているのは周知の事実です。ただしそれぞれの専門領域の問題ですので、ここでは取り上げません。

ここで取り扱うのは、「意味不明」でも心に感じる(心地よい)事物、例えば芸術に関する事物です。

これは深層意識に現成したイメージを、何らかの翻訳をしなくても、そのまま素直に現実の世界で表現できればよいのです。ただしこれとても凡人には難しいことなのですが、このための訓練を繰り返し繰り返し実行すれば、徐々に可能になるのでしょう。多分多くの芸術家はこれを実践しているのでしょう。

深層意識に現成する「意味不明」のイメージとは、井筒によれば、カール・ユングの心理学でいう人間が共通に持っている「集団的無意識」における「元型」イメージであり、現実の世界でこの「元型」イメージを直接あるいは何らかの形象として表現することができれば、多くの人々の深層意識を刺激し、これらの人達に共感を与えることは必定なのです。

たとえば、前々回考察したジャクソン・ポロックの作品でしょう。多分彼は深層意識に浮遊する「意味可能体」のイメージを認識する能力とそれを素直に表現する能力という点で天才なのでしょう。

彼は彼の作品を見る人たちに、その意味を解釈せよなどと要求はしていませんし、彼自身も自分の作品の意味など知る由もないのであろうと、私は思っています。彼は作品と一体となって「無意識」で描いただけなのです。

もちろん、作品が完成した後で、なぜこの作品が心に感じるものがあるのかを、彼自身、誰よりも真剣に考えたと思います。

これもHPを立ち上げて以来、何度か引用していますが、華厳経の「夜摩天宮菩薩説偈品」の偈(げ)の中の『巧みな画工が自分のこころを知ることが出来ずにいて、しかもこころに由って描く』という成句は、深層意識(阿頼耶識)を思わせるような意味深長な言葉なのです。

以上、「意味不明」のままで、人間の心に感動を与え、十分に鑑賞にたえる形象があるのです。そしてこれは深層意識の闇の中に浮遊し、現れては消え、消えては現れる数限りない「意味可能体」なのです。

それでは、このような形象とは具体的に何なのでしょう。

柳 宗悦 が探し求めていたもの

柳が生涯探し求めていたものは、凡人が「無意識」で作った作品の中に、天才が美を「意識」して作った作品を越えられる作品があるかということであり、そしてもしあるとすればその理由はなぜかということであると思われます。

すなわち柳は、凡人が「無」から「有」を生む可能性を、すでに追求していたのです。

これに関し、「涅槃寂静の世界」の「美とは何か/柳 宗悦の世界」でかなり詳細に考察しています。本論の結論にも通じるところでもあり、ぜひ再読されることを勧めます。

ここではそこに記されてないことで、補足的なことを以下に記しておきます。

(イ)「柳 宗悦の思想」の(1)項の中に『美醜の闘いの絶える世界に住むとしたらどうでしょう。』という言葉がありますが、これを東洋思想で表現するなら、老子の「無為自然」の世界であり、荘子の「渾沌」の世界ということで、美醜という言葉の生まれる以前の世界ということです。

(ロ)柳がいう「言葉としての美醜が生まれる以前」の美とは、井筒の言葉を借りて表現するならば、表層意識による、すなわち有「本質」的分節による美ではなくて、深層意識に現成する美、すなわち「意味可能体」の美を意味すると思われます。そしてすでに考察がなされているように、この美の根源は、人間を育んだ自然、すなわち大気循環による決定論的カオスの美であると結論ずけています。

(ハ)「華厳経の風景」エピソード編の「2.自然から生まれる無作為の美」以降、3.4.で考察していますが、「「喜左衛門井戸」を見る」(柳 宗悦「民芸四十年」、(株)岩波書店、1984年11月)の一節の一部を引用します。

『昭和六年・・・孤篷庵現住小堀月洲師の快諾を得、この茶碗を見ることが出来た。同行者は河井寛次郎。親しく手にとって眺めるに及び誠に感慨無量である。天下随一の茶碗、大名物(おおめいぶつ)「喜左衛門井戸」が如何なるものであるかを知りたいのは、私の宿願であったからである。
・・・
それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が不断ざらに使う茶碗である。全くの下手物(げてもの)である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。個性等誇るどころではない。
・・・
これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。』

これだけ衝撃的なけなす言葉を並べても、柳はこの茶碗が天下随一の大名物であることを認めているのです。凡人が無造作に作った茶碗が、天才の作をも越えることを明言しているのです。

この記述の後で、次のような記述もしています。

非凡を好む人々は、「平易」から生まれてくる美を承認しない。それは消極的に生まれた美に過ぎないという。・・・だが事実は不思議である。如何なる人為から出来た茶碗でも、この「井戸」を越え得たものがないではないか。
・・・
「平易」の世界から何故美が生まれるか、それは畢竟(ひっきょう)「自然さ」があるからである。

ここでのキーワードは、「「平易」の世界から何故美が生まれるか」という柳の問いと、その答えとして「自然さ」であり、これが重要なのです。

この柳の問いは、「凡人が「無意識」で、「平易」に生活のために多量に作った作品の中に、なぜ天才が美を「意識」して作った作品を越えるものがあるか」という、きわめて意味深い柳の発見であると同時に、この理由もきわめて重要な意味をもつものなのです。

柳がこの文章を書いたのは昭和六年(1931年)なので、まだ複雑系科学など知る由もないのです。

実は、複雑系科学が明らかにしたことなのですが、複雑微妙で幽玄な模様が生み出される創造発展のプロセスは、「平易」なルール(規則)から成り立っているのです。そしてこれが「自然の理」の正体なのです。

柳の疑問とその答えは、道理にかなっていたのです。すなわち凡人が天才を越えられる可能性のあるのは、「意味不明」でも心に感じるような作品であり、「混沌」の美や「混沌と秩序の狭間」の美であって、これらのイメージは、表層意識までは上がれないで、深層意識の闇の中に浮遊する「意味可能体」なのです。この「意味可能体」は、「種子」の相互作用による「平易」なルールによってその美が生まれるのです。

長屋の住人の意識の時間発展を記録する装置

柳のいう「「平易」な世界から何故美が生まれるか」を、電脳を用いて簡単な実験をします。この実験は「一次元セル・オートマトン」といって、複雑系科学の基礎に相当するものです。

これに関しての、学術的背景や発展の経緯などについては、ネット上で検索すれば、十分に記されていますので、省略し、ここでは文系の人にも理解しやすいように、より具体的に説明することを試みます。

前回「深層意識」のモデルとして、阿頼耶識に無数に内蔵されている「種子」の相互作用によって、何らかの意味が生まれる可能性のある情報の集まり(「意味可能体」)としてのイメージが発芽するのですが、このような「種子」の相互作用で何が生み出されるのかを、この一次元セル・オートマトンで考えてもよいのでしょう。

セル(cell)とは、小部屋のことで、これを長屋のように一列に横に並べたものが一次元ということです。オートマトン(automaton)とは自動機械のことです。一次元セル・オートマトンの機能を、具体的な例でいうと、長屋の各部屋の住人の意識(内部状態)の変化を、時間の経過に対応して、自動的に記録していく装置と解釈でき、実際には電脳によって実現されます。

この横一列に並べられたセルの時間経過にともなう各セルの状態の変化していく過程は、図1のように、逐次縦方向に記入されていきます。

図1.長屋の住人の意識の時間発展を記録する書式
図1.長屋の住人の意識
の時間発展を記録
する書式

このセル(小部屋)の内部状態を、ここでは最も簡単に、0か1かで表現します。すなわちセルには、オンか オフ、あるいは イエス かノーかという最小限の情報が記録されます。

各セルの住人の意識(内部状態)を変える要因は、住人どうしの情報交換(相互作用)によると考えます。ここではこの相互作用の最も簡単な例として、一列に並んだセルのうちのあるセルの住人と、その左右両隣のセルの住人との相互作用の結果で、次の時点での中央のセルの住人の意識が決定されるものとします。あるセルと両隣のセルの状態は、各セルが0か1かなので、2の3乗の8通りの相互作用のセットが考えられます。

ここで重要なのは、この中央と両隣の三者の相互作用で、中央の住人がどのような結論を出すのかのルール(数学的には256通り)の適用でしょう。

表1は、この256通りのうち私が選んだ5つのルールを示したもので、8通りの相互作用のセットのそれぞれに対して(上欄)、次の時点での中央のセルが矢印で示した状態に変わることを示したものです。

表1.中央と両隣りの相互作用で、中央の次期の状態を決めるルール
中央と両隣りの相互作用で、中央の次期の状態を決めるルール

たとえば、一番最初のルール204というのは、右側に記されている1と0との数の並び(11001100)を二進数と解釈して、これを十進数に変換すると204となるので、このルールをルール204と呼ぶのです。

ここで、この5つのルールの意味を考えていくことにしましょう。

ルール204というのは、長屋の住人がすべて頑固者であることを想定したルールなのです。すなわち他人の意見はまったく無視して、自分の態度をかたくなに守ろうという人たちです。この場合相互作用は成立せず、相互作用が行われない場合のルールです。

次にルール232というのは、長屋の住人が全て常識的な考えをもった人たちの集まりであると想定したルールです。すなわち自分も他人も平等と考えて、すべて多数決で物事を決めていこうとする人たちです。

以上2つのルールは世の中のどこにも見かける人たちの集まりを想定したものですが、以下の3つのルールは、変り者の集まりを想定したもので、いずれも次の時点の意志を決定する基準が、「意味不明」な人たちの集まりです。

ルール129をあえて意味付けするなら、三者がすべて同じ意見なら1に、それ以外はすべて0にする人たちの集まりです。

ルール105もあえて意味付けするなら、1が奇数個のときは0、それ以外(偶数個)のときは1とする人たちです。

ルール110は、選択の基準は見あたらず、いずれにしてもこれらは常識的には「意味不明」のルールなのです。

以上のようなルールを適用して、長屋の住人の意識の時間発展を図1のような書式に記入していく訳ですが、このためには最初のスタート時の各セルの住人の意識の状態をあらかじめ設定しないと話が始まりません。

ここでは二種類の初期条件を採用します。一つ目の初期条件は、長屋の住人の中の一人に、何らかの特別の意識が芽ばえた場合を想定し、これが時間経過にともなってどのように発展するかを調べるためのものです。ここではセルの並びの中央に相当する一つのセルに1を設定し、他のセルはすべて0を設定します。二つ目の初期条件は、全てのセルにランダムに0か1を設定した場合で、これは長屋の住人の日常の状態とも考えられ、これが時間経過で何らかの変化があり得るかを調べるためのものです。

以上の簡単な条件では、手作業でも記入はできますが、セルの数が多いと電脳が便利です。ここでは横と縦で、256 x 256です。図1の書式でセルの内部状態が0のときには白、1のときには黒にセルを塗り潰すことで、長屋の住人の意識の時間発展の状態が、白黒パターンとしてわかりやすく表示します。

図2(a)は、ルール204の頑固者の住人のときで、初期条件として1が中央に1点ある場合の結果で、中央に縦の線が一本描かれるだけです。これは当然の結果で頑固者の集まりでは、単独意見はいつまでも維持されますが、それが発展・拡大することはないのです。同様に初期条件がランダムに0か1のときでも、すべての1の箇所に縦線が描かれるだけです。

ルール232の多数決で物事を決める社会の場合には、単独意見や少数意見は一瞬にして無視され、全面白一色になります。また初期条件がランダムに0か1の場合は、図2(b)に示すように、白や黒の縦線の集まりの帯が形成されるだけで、時間が経過しても変化がないのが特徴です。すなわちスタートしてから初期の状態で、1(黒)の密度多い領域は黒一色に、0(白)の密度の多い領域は白一色に変化し、以後これがいつまでも持続されるのは当然なのでしょう。

世の中にどこにでもいる頑固者や多数決で物事を決める常識的な人たちの集まりの社会では、大きな変革は難しいのでしょう。逆に現状を維持する安定性という面では効果があるのです。

長屋住人の意識の経緯模様
図2.長屋住人の意識の経緯模様

一方変り者の集まりの社会については、それぞれの実験結果を図3に示しています。この結果から一目瞭然ですが、ここでの大きな特徴は、単独意見や少数意見が時間の経過とともに発展・拡大することです。そして通常では思いつかないような三角形の自己相似集合図形のようなパターンも現れるのです。またルール105の場合には、白・黒パターンというよりは、むしろ白と黒とがある領域にわたって均等に密接し灰色になり、この灰色の濃淡パターンが現れています。

同様に初期条件として0か1をランダムに設定した場合でも、時間の経過にともない常に変化し続け、この変化は非周期的なものが多く、一般には予測不可能なのです。まさに「諸行無常」の世界なのです。

長屋住人の意識の経緯模様(上からルール129,105,110 )
図3.長屋住人の意識の経緯模様(上からルール129,105,110 )

このように変り者の集まりの社会では、革命的な大きな変革が起こる可能性があるのです。そして混沌(カオス)の状態になる可能性も大きいのです。すなわち、きわめて不安定な社会です。これは少数意見が大きく発展する可能性があるということです。このような社会が、長い目で見て良いとか悪いとかは別の問題です。

私がここで考察したいのは、この実験結果を社会に当てはめるのではなくて、個人の内面すなわち意識に当てはめることです。変り者とは、表層意識から見て「意味不明」ということであって、井筒の言葉を借りて表現をするならば、「社会制度的固定性によって特徴づけられた紋切り型」の固着観念にとらわれないで、多様性のある柔軟な視点から意識を働かせることのできる人と解釈することです。またきわめて不安定な社会とは、新陳代謝が活発で、創造性の芽ばえる可能性の大きな意識と捉えることです。

この実験では、最小限簡単な条件を採用したので、現実を十分反映していません。ただここで重要なことは、きわめて簡単なルールから、通常では思いも付かないような複雑微妙なパターンが生み出されるということです。

このように個々の要素の局所的相互作用から全体が生まれるような仕組みを複雑系では「創発」システムといいます。

これが柳が問う「「平易」の世界から何故美が生まれるのか」の複雑系としての解答なのでしょう。そしてこの究極が、柳のいう「自然さ」なのです。

2012.6.3