高次の視点からの分節(分別)

今を生きるとは

東洋思想とりわけ仏教思想においては、「無」から「有」を生み出す、もそうですが「無分別」と「分別」など、常識的には矛盾する事態が混然と語られ、ましてや禅問答に至っては全く理解できない事態なのです。これが現代人に受け容れられない最大の理由なのでしょう。

井筒俊彦は、このような矛盾的事態を、表層意識と深層意識という階層的な視点を導入することで、現代人の日常的意識でもある表層意識のみでも十分に理解が可能な考察を展開しているのです。

もし仏教思想や東洋思想を現代に生かし、これを世界に発信するのであれば、現代人の日常的な論理で理解しうるような研究や努力が今までに十分なされるべきであったのでしょう。

仏教は文字では理解できないなどと平然としている時代ではないのです。また単に平易な言葉で説くとか、癒し系の図で何となく納得させるものでもなく、仏教を論じるときには、どのような視点で物事を見て認識するのかを常に明確にする必要があるのです。

このHPで、仏教思想を現代感覚で解釈するのに悪戦苦闘しているのもこのためなのです。仏教の「悟り」の領域に関しても、鈴木大拙や井筒俊彦などの文献を参考に、あえて現代の日常的に用いられる論理(表層意識のみ)で理解できるよう努力しているのです。

事物事象の「本質」を言葉の意味機能によって把握する表層意識で考察をしているこのHPを、仏教の立場から「妄想」と批判されることは「覚悟」の上(?)のことなのです。

宇宙から地球を見る

新年早々前置きが長くなりましたが、今年の一月四日の朝のNHKの「あさイチ」の話題は宇宙特集だったのです。ここでのしめくくりは、「宇宙から地球を見る」ということのようでした。

去年11月に地球に帰還した古川宇宙飛行士と柳澤解説委員との対談では、宇宙から地球を見たときに世界観はどのように変わったかとか、「地球の表面には国境線はない」などの話題が中心だったのです。

さらにNHK「宇宙の渚」のテーマ曲であるアンジェラ・アキさんの歌「One Family」が紹介されたのです。この歌詞の中には次のような言葉がありました。『宇宙(そら)から見た人はみんな同じ色、知らない手も家族の手だ、指をからめ、握りしめて、歩きだそう』とか、『世界中の境界線がなくなれば、僕らはきっとつながるから、大きな輪に、家族の輪になるでしょう』などです。

以上ここでの結論は、宇宙から地球を見れば、境界線などなく、「世界は一つの家族」という内容なのですが、これはまさに前回考察した「仏教の悟りの後に現成する存在構造は自己相似集合」というテーマの内容と全く同じことなのです。すなわち前回は、悟りの状態での深層意識の働きで、一切の存在の境界線が一掃された後では、「多即一」の関係が成立することを図示したにすぎないのです。

仏教思想は現実の日常的世界のいたるところに存在していることに、気付いてほしいのです。

高次の視点からの分節による存在構造

前回の考察では、井筒が記述している高い次元での詳細な内容と、日常的な幾何学図形である自己相似集合図形との対応がまだ十分にはなされていないと感じていて、実は、井筒の著作の中に自己相似集合図形以外には考えられないようなより直接的な記述があるのではと期待し、探していたのです。

その結果同じ第六巻の中に掲載されている「対話と非対話−−禅問答についての一考察−−」の中にありました。この著作は、作者が禅問答の特異性について−−Beyond Dialogue(対話を越えて)−−と題した英語の講演を翻訳されたものです。ここに引用した箇所は、前回の図1や図2の「向下道」に対応する部分の記述です。

『これに反して、「無」の観想的自覚を経た後の段階では、同じそれらのものが全て絶対無限定者としての「一者」の顕現形態として覚知されるのです。禅の立場から見てここで一番大切なことは、経験的多者界の存在者の一つ一つがどれも「一者」がそっくりそのまま自己を露現した姿として覚知されるという点にあります。「一者」がたくさんの部分に自らを細分し、それらの部分がそれぞれ独立したものになる、というのではない。そうではなくて、経験界に見られる事物事象の各々が、「一者」そのものの存在的全エネルギーの発露だということです。分節は分割とまぎらわしいので、混同されるおそれなきにしもあらずですが、とにかくここで私は術語的に、分節を分割とはまったく違う特殊な形而上学的・存在論的事態を指す言葉として使います。

例えば、「一者」がA・B・C・Dに自己分割すると申しますと、それは、全体としての「一者」が四つの部分に分かれて別々のものになるという意味ですが、自己分節の場合には、「一者」が四部分に分かれるのではなく、AもBもCもDも、それぞれが「一者」そのもの、四つの違った現れ方、四つの限定的現象形態である、という意味。その意味で、一々の事物事象がいずれも絶対無分節者の言語的自己分節なのであります。

この見地からすると、一切のものがそれぞれ「一者」それ自体であって、それ以外のものは全世界に何一つないのです。』

最初のアンダーラインの引用文では、「同じそれらのもの」や「経験的多者界の存在者の一つ一つ」は同じ意味で、表層意識で分節された個々別々に独立した事物のことです。「絶対無限定者」とは「絶対無分節者」とか「無分節者」と呼ばれることもありますが、「無」のことです。

すでに考察していますが、「無」から「有」に転じる状況では、「無」の「有」的側面(「妙有」)は、何らかの形(「有」)を記入することができる一枚の白紙なのです。文字など何らかの形を有する「有」は、白紙の上に書かれることではじめて顕現するのです。もちろんここでは最も単純な二次元平面での話ですが、文字とか幾何学的形状などの「有」は、絶対無限定者としての白紙を基盤として成立するということです。

絶対無限定者としての「一者」(「無」、白紙)は、その上に記入される全ての「有」を内包するのです。「有」の究極の上位概念である「無」の立場から「有」を見た場合には、当然高次の視点から、より形而上的、より抽象的、より普遍的な分節による存在構造として覚知されることが想像できるのです。

この引用文の「どれも「一者」がそっくりそのまま自己を露現した姿として覚知される」とは、一切の事物のどれもが、「一者」の自己相似形として覚知されると解釈できます。「無」が「有」を効果的に内包するには、相似形の器物を階層的な「入れ子」構造のように納めることなのです。

二番目のアンダーラインでの、分節の意味は、深層意識による高次の分節、すなわちより形而上的、より抽象的、より普遍的な分節なのです。「有」を深層意識が働いている状態で認識する場合、境界線(分節線)が流動的になり個々別々の事物の固有の形状がぼやけて差別がつきにくくなるのです。すなわち具象的な事物の特殊の部分が解消しより普遍的な形になるということです。

また僧肇(そうじょう)は「天地と我とは同根、万物は我と一体」と言っていますが、この境地は万物を「平等無差別」という共通の要素で抽象化して分節すると言うことです。

以上のような境地で一切の事物を見たら自己相似形と覚知できるのでしょう。

井筒のいう存在的(創造的)エネルギーとは何か

例えば、で始まる最後の三番目のアンダーラインの部分は、前回の図2の「已悟の状態(分節(U))」の図で具体的に考察します。この自己相似集合図形は、一例として四角形(正方形)で形成されていますが、どのような形でもよく、何の限定もないのです。ただ最も単純なので、仮に正方形にしただけで、要はこの内部の空白の部分なのです。

ここで「自己分割」と「自己分節」の意味で、少し注意が必要なのです。井筒は自己相似集合図形を前提として説明している訳ではないので、自己相似集合図形を用いて何かを考察しようとしている我々がこの引用文を読むと、多少混乱する恐れがあるのです。前回での図2の自己相似集合図形の作成にあたっては、まず最初に最も外側の一番大きい正方形をイメージして、それを四等分して四つの正方形を作り、次にこの一つの正方形をさらに四等分して、というように、四等分を繰り返し、作成していくのでした。したがって作成する場合にはアンダーラインの引用文の「自己分割」に近い意味なのです。

ただしこの自己相似集合図形の構造的相互関係を用いて、何らかの考えの解釈をする場合には、この作成方法には何ら関係なく、引用文の「自己分節」の文章にしたがって考察をすればよいと言うことです。これを踏まえた上で以下考察をします。

ここでの例では正方形の自己相似集合図形ですが、「無」すなわち絶対無限定者としての「一者」は、それぞれ大きさの異なる正方形の白紙なのです。この中に自らが内包する大きさの異なる正方形がいくつか記入されていても無視してかまいません。この白紙の面積は、「一者」そのものの存在エネルギーに相当すると考えられます。この面積が大きいほど「有」を多く満たし内包することが可能だからです。

井筒は、著作のいろいろな箇所で、存在的エネルギーとか創造的エネルギーという言葉を用いるのですが、これをこの図に対応して説明するならば対象にしている正方形の空白(白紙)の面積に対応するもので、すなわち絶対無分節者としての「一者」の大きさです。以前に引用していますが、「有」に転じた「無」のことを「あらゆる存在者を可能態において内包する「蔵」(「胎」)」とも言っており、この容積を意味します。

いまA・B・C・Dの四つに自己分節する場合を考えるのなら、自己相似集合図形の中のいずれでも、同じ大きさ(寸法)の四つの正方形に着目すればよいのです。そしてこのA・B・C・Dがそれぞれ「一者」そのものなのです。そしてこれが「自己のごとし」であり、「他者のごとし」であり、「花のごとし」、「鳥のごとし」になりうるのです。これが「四つの限定的現象形態」であり、「絶対無分節者の言語的自己分節」なのです。

この「存在構造」の特徴として、自己分節された形状は全て相似形であり、かつそれらが階層的な「入れ子」構造になっていることです。これは無分節者(「無」)が一切の事物(「有」)を内包し、かつ一切の事物(「有」)が無分節者(「無」)そのものであるということです。

これが現代的な術語でいう自己相似集合図形の特徴なのです。

高次言語としての自己相似集合図形

最後に第九巻「東洋哲学」の内の「四、渾沌」の最後の部分の記述を引用しておきます。

『人が、ロゴス的差別性の迷妄から脱却して、純粋に「一」の見所から存在を見ることができるなら、その時人は、「多」は「多」でありながらも「一」であること、つまり、万物は万物でありながらしかも根源的に「斉(ひと)」しいことを覚知するだろう。「多」が「多」でありながらしかも「一」、「有」が「有」でありながらしかも「無」。常識的には論理的矛盾としか思えないこの存在論的事態を、荘子は「渾沌」という語であらわそうとするのである。』

「無」と「有」、「一」と「多」、「無差別」と「差別」、常識的には論理的矛盾としか思えないこの存在論的事態に、これを明解に表現する何か新しい形の答えを模索するための思考が延々となされてきたのですが、現代人が常識的に納得できる答えの一つとして、自己相似集合図形があると考えられます。

2012.1.15