このテーマについては、前回と前々回の考察である程度達成されたと思えるのです。ただし井筒俊彦の「意識と本質」すなわち意識とその対象(存在)との関わりの構造に関して、仏教のみならず広域の東洋思想においても、何らかの方法によって深層意識の観想体験を経た後に現成する「存在構造」は自己相似集合図形であると解釈でき、これが本書全般の伝統的な東洋哲学の世界像であると読みとれるのです。
今回はより一般的な考察として、スイスの心理学者カール・ユング(1875-1961)の提唱する人類の共通の普遍的無意識を構成する「元型」に注目して、井筒の記述を参考に考察していきます。
「自己」の究明としての、表層的「自我」から深層的「自己」えの転換を探求するために、東洋哲学の主要な学派は、それぞれ独自の組織的な方法を案出しています。
『中国的表現で言えば「道(どう)」であります。ひと口に「道」といっても、具体的には、勿論、名称も形態も様々です。例えば、インド思想のほとんどすべての学派に共通なヨーガ、大乗仏教の止観、禅仏教の坐禅、老荘の坐忘(ざぼう)、宋(そう)代儒教の静坐、イスラームの唱名(ジクル)、ユダヤ教の文字・数字観想など、・・・いずれも人間の意識を日常的機能の表面だけに限定せずに、意識の深層領域にひそむ特異な認識能力を解放し、そこに「自己」の真相を探ろうとするところに特徴があります。』(第九巻「東洋哲学」の「一、人間存在の現代的状況と東洋哲学」)
このように東洋哲学でも、「自己」の探求が主要なテーマなのです。上記のような方法での観想体験によって意識の深層がだんだん深みに向かって開拓されると、古代中国の思想家、荘子が「渾沌」と呼んだ意識レベルに達するのです。そしてこの最終段階では、荘子の「渾沌」から老子の「無」(「無名」)に転じるのです。
『この意味での「無」−−「無心」(禅)、「空」(大乗仏教)、「無相ブラフマン」(ヴェーダーンタ)、「エーン・ソーフ」(カッバーラー)、「無名」(老子)、「絶対的一」(イスラーム)等々、その名は実に様々ですが−−いずれも意識と存在の究極的ゼロ・ポイントの幽邃(ゆうすい、物静かで奥深いこと)な境位を示唆する点で一致します。そしてこれらの東洋思想の伝統では、これが観想の往道の終点、還道の始点と考えられています。すなわち、長い観想修行の道が「無」に至って終局に達する。が人はそれを始点としてまたもとの道を辿り、再び日常的世界に戻ってくる。』そして『いったん「無」的体験を経た人の意識は、日常的経験の世界に戻ってきても、そこに展開している現象的事物の有様を、観想を知らない人々とはまったく違った目で見ている。つまり日常的経験の次元においてすら、存在を「渾沌」的に見ているのです。「無」に触れることによって、意識そのものが根本的に変質してしまっているのですから当然です。』(引用文献は上記と同じ)
以上の記述のように、東洋哲学の特徴は、それぞれの方法で深層意識が呼び起こされ、だんだん深みに向かって行くにつれ、前々回の仏教の観想道程と同様に向上道(往道)をたどり、「無」の状態に達した後は、向下道(還道)に反転し、この時「無」を体験した意識は大きく変質することになるのです。
『カール・ユングは、彼のいわゆる「集団的無意識」が、もともと、「元型」的に規定された基礎構造をもつものであると言っている。「元型」はそれ自体ではなんらの具体的形をもたず、「集団的無意識」または「文化的無意識」の深みにひそむ、一定の方向性をもった深層意識的潜在エネルギーである。それ自体では不可視なこの本源的エネルギーは、しかし、強力に創造的に働いて、人間の深層意識空間に、「元型」イマージュ(心象)となって不断に自己を顕してくる。』そして『人はただ、己の深層意識領域に生起するそのような複数のイマージュ群の底に、一つの「元型」的方向性を感得するだけである。そして一つの「元型」的方向性でつながれたそれらのイマージュ群が、存在を特殊な形で分節し、その分節圏内に入ってくる一群の事物の「本質」を象徴的に呈示する。』(「意識と本質」の\)
この「元型」イマージュ群の分節によって象徴的に呈示された事物の「本質」の典型的な例として、井筒は古代中国の「易経」の六十四卦(け)やその基礎にある八卦の象徴的記号体系を挙げています。
さらに哲学的世界観にまで展開させた例として、空海の真言密教の両界マンダラやユダヤ教神秘主義におけるカッバーラーや、イスラーム思想におけるスフラワルディー系の照明哲学などがその好例であるとしています。
以後真言密教のマンダラについて取り上げます。
井筒は「マンダラ」について、「意識と本質」の]で次のように記しています。最初に「マンダラ」の言葉の意味を解説した後、『「元型」的「本質」の形象図、という意味を表す。それが「マンダラ」だ。だから、こういう「本質」を、普通、仏教で解されているように、仏陀の「正覚」(「無上成等正覚」)の内容であると解するなら、マンダラとは、「正覚」を得た人の深層意識に現れた一切の存在者の真の形姿の図示と考えてよかろう。
「正覚」意識の見るがままに、全存在世界−−内的世界と外的世界を合わせた宇宙全体−−の「本質」的(「元型」的)構造を形象的に呈示する神秘の象徴体系、それがマンダラと呼ばれるものである。
・・・
すべての事物の全体的、綜合的「本質」構造こそ、マンダラが第一義的に関わるところ。・・・
そしてマンダラのこの全体構造性は、一切の事物、事象を、縦横に伸びる相互関連の網目構造において見る仏教の存在観そのものに深く根差している。因果、理事無礙、事事無礙、等々の語が示唆するように、ここでは、いかなるものも、いかなるレベルにおいても、孤立してそれ自体では存在しない。』
最初のアンダーラインでは、「マンダラは「正覚」を得た人の深層意識に現れた存在の真の形姿の図示」と、マンダラは「悟り」の後に現成する「存在構造」であると明言しています。
そして二番目のアンダーラインでは、この「存在構造」は一切の事物の相互関連の網目構造であり、仏教の存在観に根差した事事無礙などのような全体としての調和のある関連性で成り立っていると記しています。このような特徴のあるマンダラと自己相似集合図形との関係については、既に過去かなりの回数を費やし考察がなされており、これらは密接な関係にあるのでした。
井筒の向下道についての記述のうちで、「花のごとし」、「鳥のごとし」が、けっこう強調されて表現されているのです。例えば『分節されている「に似たり」、分節されている「かのごとし」の事態−−これこそ存在の究極的真相、存在の「如如」、すなわち「真如」と呼ばれるものでなくて何だろう。』(「意識と本質」のZ)と記され、これこそが禅の覚知に現成する「真如」であると明言しています。
この相似としての表現について、前回や前々回では、井筒の記述を参考にしての私の考察は、荘子の斉物(せいぶつ)思想や僧肇(そうじょう)の「天地と我とは同根、万物は我と一体」という言葉を引用して、東洋人の世界観、あるいは自然から生まれた人間の自然との共生のための規範として、万物を「平等無差別」に扱うという共通の概念で事物を抽象化して分節した場合には、とうぜん事物は「相似形」として形象化されるであろうと結論ずけたのでした。
たしかに、「---のごとし」の「如し」には、広辞苑によると@他の事物と同一であることを示す、A他の事物に類似していることを示す、B事物の例を示して他を類推させる、などの意味があるのです。
ただ井筒が、存在の究極的真相とか存在の「真如」と表現したこの強調の重要性を、再度現代感覚の立場から考察してみる価値があるのでしょう。
もう少し突っ込んだ言い方をするならば、なんで向下道(還道)では存在は自己相似集合なのか、さらには、なんで「無」から「有」を生み出さなければならないのか、を再確認する必要があるのでしょう。
私がこのテーマを選んだのは、今まで誰もが気付かないような創造的なアイデアを生み出すためのプロセスとは何かを東洋思想から導き出したかったのです。もちろん仏教の悟りから何が引き出せるかも興味の対象だったのです。
「無」すなわち全く拠(よりどころ)のない状態で、何か「有」を生み出すために、最初に何を拠にするかが問われているのです。
「無」から「有」を生み出すとは、何らかの方法での観想体験によって深層意識が深まっていき「無」の境地に達し、その折り返し点からの向下道(還道)での深層意識に何が現成するかが、最初の拠となるのです。
この時点で、真言密教の場合では、深層意識領域に生起する「元型」イマージュによるマンダラのような形象が現成すると井筒は記しています。また禅の場合では、前々回考察したように、深層意識の領域における無「本質」分節によって、自己相似集合図形のような形象が現成すると考えられます。
広域の東洋思想においても同様な結論が得られるのです。これもやはり、東洋独特の伝統的な「無」の思想によるものと考えられるのです。存在論的に完全な白紙の状態からきわめて自由自在な視点で見ることができ、前回考察した高次の視点からの分節になり、個々の事物の具象は現れず、すべて「---に似たり」、「---のごとし」といった置き換え可能な要素の全体的な秩序の相互関連性をあらわす構造として現成するのでしょう。
これはまさに根源的な東洋思想を底とした「元型」と考えることもできるのでしょう。これは例えば、自然から生まれた人間の自然との共生のための規範としての「平等無差別」の境地であったり、東洋人が長い間に築きあげてきた「文化的枠組み」のようなものなのでしょう。
また置き換え可能な要素であることの意味は、ときに大日如来であったり、ときに自己であったり、ときに花であったり、すなわちその構造が、ときにマンダラであったり、ときに自己の究明のための世界像であったり、ときに「華厳経の風景」であったり、いわゆる「真善美」などに関しての創造的応用が自由自在にできるということです。
固い凝固性として考えられてきた物質的存在の世界が、人間の意識の内面からの関与によって、限りなく柔軟な存在的「出来事」の相関的、相互依存的、相互浸透的な「事事無礙」の網目構造として現れるのが、究極の存在の真相すなわち「真如」なのでしょう。