「意味不明」との飽くなき戦い

井筒俊彦の著書を参考に今まで考察してきたように、東洋哲学の主要な学派は、自己の真相を追究するためのそれぞれ独自の組織的な方法を開発し、その成果は、人間の意識を日常的機能の表面だけに限定せずに、意識の深層を覚醒し、この深層領域にひそむ特異な認識能力を活性化し、仏教でいう「悟り」の状態になり「無」(「空」)を観想する境地に達することになるのです。

今回は、この深層意識を目覚めさせるとはどういうことなのかの考察を行い、凡人が「無」から「有」を生み出すことが可能かどうかの検討を行います。実はこれは容易なことではないのですが、そこで今後は凡人でも可能な方法を模索していきたいと思っており、このための準備もしていきます。

数ある有益な井筒の文章の中でも、第九巻「東洋哲学」の中の、特に私の好きな「文化と言語アラヤ識」の一部を引用して説明をします。

「言語」の既存の意味に依存しない分節を考える

日常的経験の世界で機能している表層意識とは、「言語」の既成の意味すなわち辞書に登録されている言語の意味から喚起される「本質」によって、一切の事物が個々別々に分節(区別)され、これを「有「本質」的分節」と呼ぶのですが、これによって一切の事物を個々別々に差別する意識をいいます。

深層意識を目覚めさせるには、この表層意識を完全に打破する必要があるのです。仏教では表層意識の働きを「妄念」とか「妄想分別」といいますが、この「妄想分別」すなわち「有「本質」的分節」を停止することが、まず必要です。これには座禅などのような瞑想によって「無分別」の状態を誘導することになるのです。

ただし言語による有「本質」的分節を単に停止しただけでは不十分で、言語の既成の意味にまったく依存しない「無「本質」的分節」を実践しないと効果はないのでしょう。

禅の立場では、公案(禅問答)という手法で、表層意識ではまったく通用しない「意味不明」、「無意味」な会話を、先達の振り上げた「杖」の恐怖におののきながら強要され、一切の経験的存在世界を粉砕するような解答を要求されるのです。

このような凄まじい修行を体験し、万が一にも深層意識が目覚めたとしても、井筒が詳細に考察しているように、この深層意識から現成するイメージは、存在の部分的局所的限定ではなく、すなわち個々の即物的事物とか、具体的なアイディアではないのです。

以前に考察しているように、このイメージは「・・・に似たり」とか「・・・の如し」というような「本質」によって固定されていない存在の究極的真相(「真如」)なのであって、「すべてのものがすべてのものを含んでいる」という全体顕現なのです。これをあえて現代風に解釈するなら自己相似集合図形を基底とする形象のようなものだと私は考えています。

「無」を体験したということは、意識が物質的、質量的な経験界の存在次元から、非質量的存在次元に転換し、変質したということを意味するのです。

この状態で現成するのは、異次元的に「宙に浮いて」いる、えたいが知れない(表層意識では容易に理解できない)イメージであり、先の禅問答のときとまったく同様に、表層意識で「意味不明」に近いイメージを扱うことになるのは当然の帰結なのです。

あとで考察しますが、井筒はこれを「意味可能体」とか「高次(異次元)言語」とよんでいます。これを表層意識すなわち物質的経験界の存在次元に変換することも「至難の業」なのです。

すなわち深層意識から現成した「悟り」の成果を、現実の世界に役立てるために何らかの知恵(「出来事」とか「形象」)として表現するには、深層意識に偶発的に現成する「意味不明」に近いイメージを即座に解釈して、現代のニーズに適用できるように翻訳する必要があるのです。

このためには、天才的な能力を必要とし、長年いろいろな経験を積むとかそれぞれの専門家に相当する知識を必要とするのでしょう。

以上、これらは井筒のいう「畛(しん)」(事物相互間の境界線)を「はずす」と「はめる」というプロセスであり、あるいは「般若心経」の「色即是空」と「空即是色」の二つの変換プロセスに相当し、いずれも凡人には「至難の業」なのです。

井筒のいう「深層意識」と「複雑系科学」の接点

このシリーズを立ち上げてからいままでの大部分は、井筒の記述を参考にして「深層意識」とは何なのかについて考察してきたのですが、井筒の記述の中に「複雑系科学」の用語の意味に似たような言葉が所々に現れるのに、うすうす気になっていたのです。

あらためて見直すと、井筒自身もある程度気付いており、自然科学の新しいパラダイムとして、『限りなく柔軟で、常に変転する「出来事」の相互連関の複雑微妙な創造的プロセス』と記述しています。

ちなみに、井筒が「意識と本質」を書き始めたのが1980年頃といわれており、一方、複雑系科学の基礎となる「散逸構造」や「自己組織化」などを提唱したイリア・プリゴジン(1917〜2003)が1977年にノーベル化学賞を受賞し、世界的に脚光を浴びています。

一切の存在がそれぞれ「言語」によって定義された「本質」によって区別され個々別々に他から孤立して存在する物質的世界、ここでは主に全体の構造やその性質は部分(構成要素)の積み重ねとして思考される線形思考の単純明快な世界でもあり、これを井筒は「日常的経験の世界」とか「物質的(固定的)存在の世界」、「表層意識が機能する世界」と呼んでいます。

一方東洋思想の世界観は、一切の存在が何らかの関係性によって関連し、個々の間や個と全体との相互作用が複雑に影響し合い、これによる変動を前提として、存在の柔軟で動的な創造的発展の世界であると井筒は記しています。

同様に複雑系科学が対象とするのは、生物や自然環境、人間社会のような不確定な変動を介して自己組織化し、変異しつつ発展するような系を扱い、ここでも一切の存在の個と個および個と全体とが動的な相互作用で連動する系なのです。そして全体の構造やその性質は、単に構成要素としての部分の積み重ねでは説明できない非線形の複雑で創造的な世界なのです。

すなわち東洋思想と複雑系の科学とは考え方がよく似ているのです。ただし以前にも考察していますが、近代までは「多くの要因が複雑に相互関係している世界」を想定するのみで、それ以上の発展はないのです。

これは人間の能力の限界を意味することなのでしょう。複雑系科学が世界的に脚光を浴びた最大の理由は、電脳の発展にあったのです。すなわち近代までは天才の独せん場だったのですが、電脳の発展のおかげで、凡人にも思考する可能性が生まれたということです。

さて、井筒の著書の要点は、「言語」すなわち「文化」による社会制度的固定性によって特徴づけられた紋切り型の(使い古されて色あせた)思惟、感情、や行動パターンの日常的経験の世界を、人間の深層意識を積極的に働かせることによって、流動的でより柔軟に発展をし続ける有機的な(生き生きとした)創造的な世界に転換することなのです。

これは以前に「涅槃寂静の世界」で考察しているアンフォルメル思想そのものです。

現代において、凡人がこれを積極的に実践するのであれば、複雑系科学を徹底して活用することであると、私は考えています。以前の考察で、大学教育における初期の課程で文系と理系を融合(一体化)すべきであると記したことがありましたが、最小限、文系の人には複雑系科学の手法や概念を、一方理系の人には複雑系科学を通して哲学を学んでほしいのです。

「深層意識」のモデルとしての「阿頼耶(あらや)識」の「種子(しゅうじ)」

5〜7世紀頃と思われるのですが、「無」から「有」を生み出すプロセスを当時としては理論的に追究したのが、大乗仏教、唯識(ゆいしき)派の思想家です。

井筒は深層意識のモデルとして、この唯識思想を参考にして多くの考察をしているのです。

この唯識思想とは、一切の存在は、唯一「識」の作り出した「出来事」や「イメージ」で、「識」のほかには事物的存在はないという説です。現代の電脳中心の情報化社会に似ているとは思いませんか。

この「識」は、前五識(五感)、第六識(意識)、第七識(末那(まな)識)、と第八識(阿頼耶識)の八識のことです。唯識が理論的というのは、有機体としての機能がちゃんと備わっていることなのですが、ここでは省略します。

井筒が特に注目するのは、第八番目の阿頼耶識の中にある記憶素子としての「種子」やこれに作用する「薫習(くんじゅう)」といわれる記憶機能です。

『人が、内的に外的に、絶えず何かを経験する、その一つ一つの印象が、無意識的に心を染めていく、丁度、香のかおりが、知らず知らず、衣に薫(た)きこめられていくように。人間の経験の一片一片は、必ず心の奥に意味の匂いを残さないではいない。意識深層に薫きこめられた匂いは、「意味可能体」を生む。その一つ一つを「種子」と呼ぶのだ。こうして生まれた「種子」は、潜在的意味の形で言語アラヤ識のなかに蓄えられ、条件がととのえば、顕在的意味形象となって意識表層に浮かび上がってくる。そして、この経験そのものが、またアラヤ識を「薫習」して、新しい「種子」を生む。このように、経験は「種子」を生み、「種子」は新たな経験を触発して、尽きるところを知らない。そればかりか、必要かつ充分な条件が得られずに、いつまでも表層意識領域に出てくることができない「種子」も、潜在状態のままで、言語アラヤ識内部で、別の「種子」を「薫習」し、生み出していく。』

言語アラヤ識というのは、井筒の主張する言語による「意味分節理論」が成立する意識下の領域なのですが、唯識の阿頼耶識に対応させこのように呼んでいるのです。そしてこの意味分節の機能を「種子」の働きとして説明しているのです。

すなわち阿頼耶識に無数に内蔵されている「種子」は、それぞれ他の識を介して相互に情報交換(相互作用)を行っている訳で、この相互作用の結果、何らかの意味が生まれる可能性のある情報の集まり、「意味可能体」としてのイメージが触発されるのです。

このイメージのうち、圧倒的に多いのは、経験界に存在する事物のイメージで、即物的イメージともいいますが、これは経験界の現実の事態に刺激されて発生し、そのまま直接に表層意識に上昇し、そこで事物の「本質」として分節が行われ認知されるのです。これが言語による有「本質」的分節といわれるものです。

一方、外界に直接の対応物をもたない非即物的イメージの場合は、当然言語によって名前が付けられていない老子のいう「無名」の状態であり、「本質」は存在しないので、通常では、すなわち凡人では、分節は不可能なのです。

たとえ阿頼耶識にこのようなイメージが生起したとしても、経験的現実の世界に直結する表層意識まで上がっていかないのです。いわば途中で止まってしまうのです。

このように非即物的イメージの「意味可能体」が、下意識の闇の中に浮遊しているのです。現れては消え、消えては現れる数限りない「意味可能体」が、結び合い、溶け合い、またはほぐれつつ、瞬間ごとに形姿を変えて、「無」と「有」の間をさまよっているのです。

「本質」をないがしろにする愚かさ

井筒は凡人でも理解しやすいように、あえて即物的イメ−ジと非即物的イメージとに区別してわかりやすく説明していますが、深層意識の闇の中に浮遊している「意味可能体」は、非即物的イメージだけではなく、即物的イメージでかつ「意味不明」なものも山ほど沢山あるということです。

これは日常的経験の世界において、辞書に登録されている言語で表現できない事物、あるいは辞書に載っていない事物が、山ほどあるということです。すなわち「本質」が言葉で定義されていない事物が山ほど沢山あるということです。

普段勉強しないで、ネット上で、「・・・について教えて」で事足りると思ったら、大間違いなのです。

先の考察のように、「意味不明」な禅問答を何度となく繰り返し、深層意識に刺激を与えることで、たとえ深層意識から何らかのイメージを引き出したとしても、そのイメージもまた「意味不明」なのです。

これが凡人の世界なのです。したがって「意味不明」な事物に遭遇したときに、それを即座に克服できる能力(洞察力)を鍛えることが先決なのです。

そのためには現実の世界に存在するあらゆる事物の「本質」を究めることが必要なのでしょう。

現実の世界に存在する事物の「本質」を十分追究しないでおいて、単に座禅などの方法で、深層意識に浮遊する「意味可能体」を、現実の世界に引き上げようなどと考えるのは、本末転倒なのです。

それぞれの専門分野の専門家に相当するぐらいに学問を身につけた者、すなわちそれぞれの分野で、有「本質」的分節が十分に実践できる能力をもった者のみが、無「本質」的文節を行って、効果が得られると思っています。

人間は一生涯、「意味不明」の事物との飽くなき戦いであると思っています。

2012.5.20