浄妙の宝輪はまどかに清らけく

上妙の宝輪はまどかに清らけく

華厳経の冒頭の情景、「・・もろもろの宝、くさぐさの花のよそおい美しく、淨妙(じょうみょう)の宝輪はまどかに清らけく、無量の勝れたもので、種々に荘厳(そうごん)されたあり様は、あたかも限りなき海原のよう。・・」文献(1)

この画像で中央の緑の領域は、宝輪(塔の上部にある九つの輪)あるいは菩提樹のイメージ、左側は大海原、右側は七宝の旗ほこや旗のイメージです。

これら展示されている画像は、誰がどの様にして描いたの? これらの画像は現実の世界には存在しないもので、電脳と私の感性(阿頼耶識(あらやしき))との合作です。電脳では後で検討しますが、数学的カオスを扱っているのですが、この数学的カオスは巧みな画工のようなものであり、この画像のように実体のないイメージのような美しい草花などを描くことも可能なことが、最近わかりました。

そしてこの手法の原理を華厳経の記述に対応させますと、唯識(ゆいしき)論、詳しくは帝網無礙唯識(たいもうむげゆいしき)にきわめて似ているのです。

詳細は、目次の「唯識思想と電脳が生み出す画像」(文章)の項を読んで下さい。めんどうな事に興味のない人は、この項は飛ばして下さい。

(追記)

芸術作品は、何らかの動機(モチーフ)があって、意図的に描かれるのですが、これらの画像はある数学的な条件によって電脳が数多く生み出した中から、私の感性で選択されただけのものです。ここである数学的な条件とは、かって法蔵が直観的に洞察したであろう鏡による多重反射、すなわち重重無尽によってたどりつく世界を想定しています。