仏陀の象徴

如来蔵思想

「華厳経の風景」と言いながら、仏や菩薩のイメージ画像がいっさい現れないのです。例えば「華厳五十五所絵巻」のように文殊菩薩をはじめ多くの善知識が登場し、善財童子に説法する場面などの絵を見ると、「花だけでいいの?」と何となく心細く感じていました。

ところが偶然にも「華厳経の風景」を探索している数学的領域の特別な位置に、表示した画像のようなストゥーバ(仏塔、仏舎利を安置してある塔)のイメージ画像が現れたのです。これは電脳で花を見つけるための作業で通常用いているフィルターを特殊なものに変えたためでした。画像からわかるように、ストゥーバの中心部、鉢を伏せたような覆鉢(ふくはつ)の中央に仏舎利を入れる舎利器が見えるように断面図で示されるという念の入れかたです。

しかし依然として仏や菩薩のイメージは画像として現れませんでした。 多分、私の修行が足りないものと諦めかけていたところ、下記の本を読んでいてすべてが解決したのです。

以下その要旨を断片的に引用したものです。

「 ストゥーバという言葉は、もともとインドでは「うず高く盛り上げたもの」という意味で、これが覆鉢(ふくはつ、伏鉢とも書く)と呼ばれている部分で、さらにその上に何重にもなった傘、すなわち傘蓋(きんがい)を立てるようになった。日射のきついインドでは、身分の高い人ほど何重もの傘をさしかける習慣があり、これが死後の墓まで持ちこまれたものである。・・・

ストゥーバが仏陀のシンボルとして最高の尊敬を受けていたことに変わりはなかった。・・・

仏教が生まれてから約500年の間は、仏像(仏陀の前身である菩薩の像も含む)というものはまったく存在しなかった。・・・

仏陀の象徴としては、釈尊が説法をしておられることを象徴した法輪やストゥーバのほか、釈尊の成道(じょうどう)を象徴する菩提樹、 樹下の仏座、台のような形をした仏座、 傘蓋を立てた仏座、 釈尊の足跡などが用いられた。仏座はすべて空席になっており、そこに釈尊が座っておられることを暗示している。・・・

仏陀と菩薩は無上に尊いものであるから、形に表すことはできない、形に表してはいけない、と。・・・」( 紅山雪夫:「不思議の国インド」、(株)トラベルジャーナル、1995年11月)

「華厳経」は、釈尊が成道して間もない第二七(にしち)日(第二週目)に説法したものといわれています。ともあれ、仏像に執着する必要はなく、華厳の宇宙へ思いをはせるための「華厳経の風景」は、仏座を表す象徴としての花だけで十分だと思われます。

「大方広仏華厳経」といわれるように、仏陀は人間の頭脳や電脳の境界領域をはるかに超えたところにおられるのです。