日本画風のフラクタル画像/「自然から生まれる無作為の美」

フラクタル幾何学は、自然界の多くの形状を表現するのに最も適していると言われながら、たとえばインターネットで検索すれば山ほどあるマンデルブロー集合やジュリア集合の画像は、自然界の形象がさっぱり表現されていないのです。すなわち既存のマンデルブロー集合やジュリア集合の画像は、宝石の装飾品のようなもの、非日常的で独特な奇妙な形状のもの、あるいは万華鏡の画像のように見たときはきれいと感じるけれども後にその形象の印象が全く残らないもの、などが大部分なのです。

また特に最近気になるのは、リアリティーをよそおった見せかけの、電脳による3D画像処理加工を施した画像が氾濫していることです。

これらの画像は初めて見る人やたまに見る人には、非日常的な珍しさ故に、大きな好奇心をさそる画像なのですが、長年接している人にとつては,飽きが来るのです。

このHPを最初に立ち上げた「新しい趣味の創作」(2005-01-30)にも、『私は余生を過ごす状態にいますので、宝石にはあまり興味がなく、誰もが見過ごして通ってしまうであろう、道ばたにひっそりと咲く草花に興味を覚えます。』と記しています。日常的な自然の形象は、長年接していても飽きることがないのです。

フラクタル画像を生み出す根元となる数学的カオスから、非日常的な奇妙な画像を生み出すことも可能であり、さらにこの画像を電脳の高度な画像処理能力を用いて時間を十分かければ、非日常的できわめて珍しいきれいな画像に加工することは特に難しいことではないのです。

ただしこのような画像は、古代から自然の中で人間が経験した記憶の断片が蓄積されている深層意識をより刺激するようなものではないのです。いまだかってない経験、すなわち珍しさ故の感動にすぎないのです。最初のうちの感動であって何回も見慣れてくると飽きるのです。

このような画像にはあまり興味がなく、フラクタル画像の本来の面目とも言うべき、自然のありのままの姿を生み出す(分節する)ことを、このHPを立ち上げて以来の目標としているのです。

無「本質」的分節については、前回のテーマ「「無」から「有」を生み出す東洋思想」で詳細に考察をしていますが、非日常的な事物も、日常的でその「本質」が未だ定義されていない潜在的な事物も分節されうるのですが、意味のある分節という観点からは、深層意識により感応する事物を生み出すことが目標になるのでしょう。

たとえば、「「意味不明」でも心に感じる形象 =「意味可能体」」でとりあげていますが、天下随一の抹茶茶碗と言われる「喜左衛門井戸」についての柳 宗悦の記述、『非凡を好む人々は、「平易」から生まれてくる美を承認しない。それは消極的に生まれた美に過ぎないという。・・・だが事実は不思議である。如何なる人為から出来た茶碗でも、この「井戸」を越え得たものがないではないか。
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「平易」の世界から何故美が生まれるか、それは畢竟(ひっきょう)「自然さ」があるからである。』、すなわち「自然から生まれる無作為の美」が最高と言っているのです。

このHPのメインテーマである「自然科学から生まれる花園」でも、数学的なカオスからより自然に近い形象を生み出す(分節する)ことが目標であって、見かけ上きれいな画像処理を施した、すなわち作為的な加工によって作品を装飾することは、二の次でよいと考えています。

より自然に近い形象とは、深層意識により感応し、美意識や安らぎを喚起させる形象です。特に古代から自然に接し、自然と共生してきた日本人にとって、その精神や文化の根底を占めるのは自然の秩序です。日本人の深層意識をより感応させる日本の美、たとえば日本画のような画像を、数学的なカオスから生み出せないかという試みがこのHPなのです。

「電脳とのコラボによる無「本質」的分節の世界」の題目に添付した画像は、日本の着物の模様をイメージして展示したものです。この画像は、自己相似集合図形であることが容易に認識でき、フラクタル画像そのものです。

このような画像が電脳で数学的カオスを分節することで、生み出されることじたい、不思議とは思われませんか。

2012.12.9