平安中期の「和様」、毛筆と墨の躍動美

昨年12月30日第54回日本レコード大賞のテレビを見ていたら、その最初のほうに登場した功労賞を受けた、かまやつひろしさんの歌に下記のような歌詞がありました。
『なんにもない なんにもない まったくなんにもない
・・・
星がひとつ 暗い宇宙に生まれた
・・・
なんにもない大地に ただ風が吹いていた』

この風の流れは、地球上の自然の摂理の根源といえるのでしょう。大地に大気が存在するということは、水が存在するための必要条件で、川や海の存在を可能にするのです。大気や水は太陽熱の温度差によって、常に移動し続け、これらの現象を気象といいます。

そしてここに数多くの生命体が生まれるのです。この生命体が維持されるためには、常に新陳代謝(物質代謝)が必要なのです。このように一切は動的な流れ(無常)の世界なのです。

自然から生まれた人間の深層意識には、このような自然の根源となる大気や水の流れの記憶の断片が数多く蓄積されているのでしょう。東洋美術では、風の流れや水の流れなどの流動の美を表現するのに、墨を用いた毛筆による書や描画があります。

「書を芸術にした男」から「和様の書」へ

今年1月前半の新聞報道によると、4世紀の中国・東晋(とうしん)時代に活躍した、書道史上最大の書家、王(おう)羲之(ぎし)の精巧な写し(模本)が日本国内で見っかったのです。文面や筆づかいなどから7〜8世紀の中国・唐時代に宮中で制作されたものの一部とみられ、本人の真の筆跡は戦乱などで失われ見つかっていない現状では、羲之の書風の解明につながる貴重な資料となるということです。

この写しは1月22日から東京国立博物館で開催される「書を芸術にした男、書聖王羲之」展で公開されています。

ここで書風という言葉は、書道では古くから使われていたようですが、何を意味するのでしょう。一般的には、書きぶり、書体を意味しますが、その根底には躍動的な流動の美が存在するように思えるのです。書道で書を評する言葉に、流麗という形容詞がよく使われますが、広辞苑によると『詩文の語句や書きぶり、音楽の調子などが、なだらかでうるわしいこと』とあります。

日本の書道史を見ると、平安初期の頃までは、中国・唐時代すなわち王羲之の書法の影響が多分に尾を引いている時代であり、主に空海の書がその指導的立場にあったようです。

平安中期になると、遣唐使の廃止によって中国文化との交流が減退し、「和様の書」の時代となるのです。「和様」とは中国風(唐様)に対して、日本風を意味します。

仮名の発達もこの時代の特徴で、特に平仮名が和歌や文学の発展と相まって他の時代にない盛況だったのです。さらに書のための紙として、料紙(りょうし)の装飾技法も大いに発達し、書風と調和し優雅で繊細さを表現するのに最も洗練した使われ方がなされ、書の美術的表現が格段に高められたのです。

そして日本人の感性に、毛筆による繊細な流動の美が脈々と蓄積される時代になるのです。この日本の書の源流を紹介する特別展「和様の書」が同じ東京国立博物館で7月13日から開催される予定になっています。

数学的カオスから流動の美が生まれるか

自然の根源はまさに気象なのですが、この大気の流れの現象は数学的カオスの宝庫といわれています。従って数学的カオスから流動の美が生み出される可能性は大きく、たとえばその典型は天気予報でおなじみの渦なのでしょう。

ただし一般に公表されている、たとえばマンデルブロー集合やジュリア集合の画像では、渦以外の流動の美のイメージを表現した画像は少ないように思えるのです。特に毛筆による躍動的な流線の美のイメージを表現した画像はないように思われます。

今回はこのような流線の美を生み出すことに挑戦します。無「本質」的分節とは、従来の固定的な概念を徹底して打破することであって、まさに流儀や流派に全くとらわれない無手勝流が功を奏するのです。

ただし、闇雲の無手勝流ではなく、電脳を味方に付けた無手勝流である点が私がいつも強調しているところです。すなわち流儀・流派にとらわれないとか、何に遭遇しても臨機応変に対応できるという意味で、「前衛」的であるということです。

日本の書の世界でも、戦後のアンフォルメル芸術運動とおおかた時期を同じくして、「前衛書」という名称が生まれています。それではこの前衛書とは何なのかということになるのですが、これを厳密に定義できたとしたら、これはもう書道の一つの流儀そのものであり、本来の意味の「前衛書」ではなくなってしまうのです。創造とは、何が飛び出すかがわからないところが、醍醐味なのでしょう。

「前衛書」にしても、無「本質」的分節にしても、一つの手法や視点を発見すればそれで安住できるということではないのです。生き物が新陳代謝を止めたら死を意味すると同じように、常に未知との遭遇を求めて、何らかの行為を実践し、それによって新たな直観を獲得し、新たな感動に遭遇することの繰り返しなのです。

無「本質」的分節を鈴木大拙の言葉を借りて説明すれば、「無分別の分別」ということです。無分別とは意識がカオスの状態そのものであり、ここから何かを生み出すことが分別なのです。ここで重要なことは、今までも何度となく考察をしていますが、あくまでもカオスの状態での分別であるということです。

日常の意識のままで既存の事物をよりどころとして分別すると、これは有「本質」的分節であり、凡人の場合には、既に誰かが生み出して公知になっている、すなわちありふれた事物しか生み出されない場合が多いのです。

私の場合は、数学的カオスを利用して分別するのですが、そのとき数式を超高速で演算できる電脳の能力を借りて試行錯誤で分別しているにすぎないのです。これを他力本願と呼ぶかどうかは別にして。

それではこの「電脳とのコラボによる無「本質」的分節」で何が生み出されるのでしょう。

前にも検討していると思いますが、数学的なカオスすなわち決定論的カオスが明らかになったきっかけの一つに、アメリカの気象学者エドワード・ローレンツがいます。彼は電脳で動的な気象変化の挙動を研究するために、気象現象の仕組みを簡略化した非線形微分方程式モデルを考案し、計算を何度も試みた結果、決定論的な因果関係を表す簡単な漸化式においても、初期値のきわめてわずかな値の誤差が、計算結果に膨大な影響を及ぼすことを発見したのです。これがカオス特有の「バタフライ効果」です。すなわち天気の中・長期予測は原理的に予測不可能であることを明らかにしたのです。

地上における大気の流れの現象である気象は、自然の根源であり、数学的なカオスとも密接な関係にあるのです。従って数学的カオスの状態にあるものをを何らかの分別をすることで生み出されるものは、自然から比較的容易に生み出されるものなのであろうと推測しています。比較的容易に生み出せるということは、人間のように高度に進化したものでなく、あまり進化していない原始的、本源的なものということです。

それでは、あまり進化していない原始的なものを生み出して、何のメリットがあるのでしょう。この理由は、人間の深層意識の中に潜在的に潜んでいる何かを見つけ出したいからなのです。

自然から生み出され育まれた人間のきわめて長い期間における膨大な経験の記憶の断片の蓄積によって深層意識に脈々と受け継がれている「元型」、とか「意味可能体」のようなものが見つけられないかという期待からなのです。

ここで「意味可能体」とか、ユングの心理学用語としての「元型」については、既に「「無」から「有」を生み出す東洋思想」シリーズで井筒俊彦の著書を参考にして、詳細に検討しています。

たとえば、今回考察している書すなわち人間が生み出した文字を、数学的カオスから生み出すことは不可能であることは当然です。ただし書(文字)を美しいと感じさせる共通的な形態やその構成要素としての線の形態は、生み出せる可能性があるのではと期待しているのです。

ただしこの場合でも、生み出される形態は無数にあるわけですから、この中から人間が選択する必要があるのです。ここで重要なのは、人間が創造的な新たな何かを生み出す能力やその作業に比べて、心に感じる新たなものを選択する作業の方が容易であるということです。

すなわち、電脳が生み出した形態の中から、人間の深層意識に感応するかどうか(人間が感動するかどうか)というフィルターを通して選択する仕組みという訳です。

電脳が生み出す「毛筆による流動の美のようなもの」

以上の考察から推測できるように、電脳が生み出す形態は、現実の世界に存在する具体的な形そのものではなく、この具体的な形をイメージさせるような形態であり、すなわち比喩としての形、井筒の言葉を借りれば「方向性のみを表す」形として、いわゆる「・・・の如し」とか「・・・のよなもの」というイメージを喚起させるような形態になるのでしょう。

そして人間の役割は、電脳が生み出した無数の形態の中から、あたかもコンクールに数多く応募してきた作品の中から、その趣旨のイメージに合い、かつ最も感動した作品を選考するように、選択すればよいのです。

下図にこのようにして選ばれた画像の数例を展示します。

ここで図1と図4は、マンデルブロー集合の周辺から生み出された形態で、毛筆の躍動的な流線をイメージして選択したものです。同様に、図2と図3は、ジュリア集合の周辺から生み出された形態です。

図1. 電脳が生み出した形態(1)
図1. 電脳が生み出した形態(1)
図2. 電脳が生み出した形態(2)
図2. 電脳が生み出した形態(2)
図3. 電脳が生み出した形態(3)
図3. 電脳が生み出した形態(3)
図4. 電脳が生み出した形態(4)
図4. 電脳が生み出した形態(4)

これら電脳から生み出された形態は、毛筆による躍動的な流線の美を感じることができるのではないでしょうか。たとえば図4などは、きわめてリズミカルな運動で描かれています。もちろん文字の連なりそのものではありませんが、それぞれが独立したものではなく、互いに関連して連動し、調和がとれているのです。

これらの図を見たとき、このような躍動の美は、人間が毛筆を用いて、とっくの昔に完成している、とおっしゃる方がいるかもしれません。

おっしゃる通りなのですが、ただしこれらは電脳が生み出したことに意味があるのです。すなわち電脳は、人間がまだ気が付いていない新たな躍動の美をを生み出す可能性を秘め、その潜在能力があるという証でもあるのです。

2013.2.3