パウル・クレーの無「本質」的分節の方法【T】

スイス出身の画家パウル・クレー(1879〜1940)の作品は、きわめて多くの日本人に愛好されているのです。近隣のヨーロッパ諸国を除いて、日本でのクレーの展覧会の開催数は、世界で最も多いとのことです。

またクレーは造形理論の研究でも有名で、1921年〜1930年の間、ドイツの総合造形学校、バウハウスの教授をしています。

パウル・クレーの「造形思考」(訳者 土方定一、菊盛英夫、坂崎乙郎、(株)新潮社、1973年5月)という本は、バウハウス時代の論文や講義の草稿などを基に、ユルク・シュピラーによって、編さんされたものです。

この本の目次の後の表紙に、1914年のクレーの言葉が記載されています。

(1)『アングルは静止を秩序づけたといわれる。
わたしはパトスを越えて、運動を秩序づけたいと思う。』

前回、日本の美の代表的な一つとして、自然の根元的な大気や水の流れなどの運動(ダイナミズム)に着目して、書道における線の流動の美や墨の濃淡の美について考察しました。

実は、クレーの絵の多くは、線描を基調として構成され、きわめてリズミカルな線の運動の軌跡や色の明暗の階調の変化の美を表現しているのです。すなわち前回の続きとして、パウル・クレーを取り上げたのです。

1914年はクレーの修業時代の終盤の頃で、自然界のダイナミズムに着目しこれを表現するのに、感情的な情動によって作品を生み出すのではなく、パトス(激情、熱情)を越えて、思索的(理論的)に、冷静に見つめることで、無意識(深層意識)の内に見いだされる何らかの秩序を追求し、これを表現したいと記しています。「運動を秩序づける」とは運動を何らかの形態として表現するということです。

このようなクレーの考えや表現手法は、このHPで詳細に考察し続けている深層意識から何かを紡ぎ出す無「本質」的分節に、対応するように思えるのです。このことは、パウル・クレーの「造形思考」の本を読むとき、井筒俊彦の「意識と本質」の観点を導入すると、彼の理論的な核心が理解しやすいということです。

以下、「造形思考」の本のうちの「造形論の概念」について考察します。

「見えるようにする」とはどういうことか

「10.創造についての信条告白」の項の始め(T)に、クレーの最も有名な言葉が載っています。

(2)『芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである。

たとえば、線描の本質はともすれば抽象に向うが、当然のことだ。もともと線描芸術には、想像力の産物ともいうべき幻想性や童話的な性格が備わっており、同時にその性格がここでは実に正確に表現できる。』

現実に存在していることが一般に認められているものを、そのまま再現するよう描写したら、有「本質」的分節ということなのでしょう。ただし、このように見えるものでも、誰もが気付いていない視点から何らかの別の形態として表現でき、かつこれが多くの人から共感が得られる場合には、無「本質」的分節といえるのでしょう。

またこの世に存在しないもの(見えないもの)を、何らかの形態として表現でき、かつ多くの人に感動を与えられたら、これも無「本質」的分節です。

クレーの場合、上記の引用文の後半の文章からも、想像力を働かせた幻想的なものの方を重視しているように思われます。

この理由は、Xに記されています。

(3)『かって、画家は地上に見られる物を、見て好ましかったものを、あるいは見たら好ましかっただろうものを描いた。しかし、今日では、眼に見える事物の相対性が明らかにされ、この相対性は、眼に見えるものは、物質と精神を一丸とした世界との比較では、限られたほんの孤立した一例にしかすぎない、他の真理も無数に潜在しているのだという信念を表明させるにいたった。

この下線の表現は、きわめて意味深長な言葉で、クレーが仏教の「空」を理解しているかのような表現なのです。すなわち、眼に見える事物は、他との関係において存在するもので、視点を変えて物質と精神を一丸とした世界においては、ほんの一例にすぎず、他にも無数に潜在しているという意味なのでしょう。

「11.造形手段の領域における展望・・・」には、1924年に彼の展覧会での講演の内容が記述されています。その講演の始めに次のように言っています。

(4)『芸術作品というものは、もともと作品そのものが独自の言葉で、見る人の心に語りかけるはずのものですから、いまわたしの作品を言葉で説明するに当たって、さしずめわたしはいささか不安を感じないではありません。・・・

というのは、画家としてわたしはわたしなりに、表現手段を身につけていると感じています。けれども、わたし自身を制作に駆り立てている方向に、他の人々を導くことができるでしょうか。芸術家の制作過程を、制作に当たってと同じ確信をもって言葉で明らかにすることができるでしょうか。』

まさに絵画という独自の言葉を紡ぎ出す無「本質」的分節なのですが、これは「見る人の心に語りかけるもの」であって、日常の言葉を用いて、見る人の意識(表層意識)で理解できるように説明することは、難しいと言っているのです。芸術の創造過程を日常の言葉で説明することは難しいのでしょう。

このパウル・クレーの境地を代弁するとしたら、仏教でいう「悟り(覚り)」の方法やその結果を、一般の人に日常の言葉で説明することは、仏陀(ブッダ)といえども難しいのです。

「見えるようにする」とは、単に何らかの形象として表現するだけではなく、それが見る人の深層意識に感応するものでないと意味がないのです。無「本質」的分節とはこういうことなのです。

クレーの作品が日本人に人気がある理由と彼の世界観

パウル・クレーに関しての数ある書籍の中で、この理由を解明したものは無いと思われるのですが(私の不勉強による思い込みかもしれません)。

「7.自然研究の方法」の最初で次のように述べています。

(5)『芸術家にとって、自然との対話はつねに不可欠の条件である。芸術家は人間であり、自らも自然であり、自然の空間内の一片の自然である。

クレーが西洋人らしからぬところは、「人間は自然の空間内の一片の自然である」と言明していることです。

これが、彼の作品が日本人に好まれる、最もわかりやすい理由の一つといえるのでしょう。ただしまだまだあるのです。
以下この「自然研究の方法」を順次考察していきます。

(6)『今日の芸術家は精巧なカメラ以上である。より複雑で、より豊かであり、より広い。』

現代はデジタルカメラにより画像を電気信号として変換し、電脳を利用すれば、その画像を如何様にもデフォルメすることが可能な時代なのです。

クレーはこれを先取りしているのです。そしてこの究極においては、カメラで写すことができないものを(人間の内面において何らかの感動を喚起するようなもので、この世に存在しないものを)、何らかの形態として「見えるようにする」ことなのでしょう。この方がより複雑で、より豊かであり、より広い(広範囲である)といっています。

(7)『対象物はその内面に関するわたしたちの知識を通じて、その現象以上のものにひろがる。つまり、物は、その外面が認めさせる以上のものであることを知ればいい。』

対象物は、人間を含む一切の生物や無生物なのですが、この対象物の外面的なものより、その内面について推理することの必要性をいっています。

(8)『感情的な推理は、それぞれがとる方向に応じて、多かれ少なかれ精密に、現象の印象を機能的な内面化に高めることができる。以前、解剖学的なものが今はより多く心理学的なものとなる。

対象物の人間化へ通じる次の方法は、対象を内面化するこの種の直観をさらに一歩出たものである。』

感情的な推理、すなわち対象を人間の内面で推理することは、対象の印象を機能として捉えることであるとしています。クレーは芸術家ならぬ科学者のような発想なのです。以前は解剖学的すなわち可視的内面として捉えていたものを、今は科学としての機能、すなわち心理学的に捉えなさいということです。

これは私の推測ですが、パウル・クレーと同年代のスイスの心理学者ユング(1875〜1961)の影響を受けているかのように思えるのです。これに関しては次回に考察します。

「対象物の人間化」とは、人間が自然界の一員として同じ自然の対象物になりきることだと解釈されます。この方法は次のクレーの世界観によって理解できるのでしょう。なおクレーは「直観」をきわめて重視しているのです。

P111の上部に示されている図は、多分クレーの世界観を表したきわめて重要な意味のある図であると考えられるのです。そこでこの図を多少なりとも現代的に解釈した図を下図に示します。

図1.パウル・クレーの世界観(四元統合)
図1.パウル・クレーの世界観(四元統合)

(9)『自然研究者はさまざまの方法で習得し、作品へと変えられていく体験を通じて、自然の対象物との対話によって到達した段階を越えることを示している。自然を直観し、観察することに長じて、世界観にまで上昇すればするほど、抽象的な形成物を自由に造形できる。

クレーの世界観がすごいところは、自己(芸術家)と対象と地球環境としての海・山・川などの自然、そして天空すなわち太陽や雨雲・大気の流れの気象の四つの要素を四元と呼び、これらを統合することなのです。

普通は、自己の現前に広がる世界を観察するという立場、すなわち自己を世界の外に置いて、その世界との関係を客観的に観察する立場をとるのです。

ところがクレーは、自己を世界の中に含め、世界の中の一員として世界全体との相互関係を内面的に把握するという立場なのです。これはクレーが自然と一体化すると同時に、彼が造形している作品とも一体化することを意味しているのです。

クレーは、自然界に存在するものをそのまま描写するような画家ではないのに、なぜこのように自然界を重視するのでしょう。

この理由は、『自然の胎内に、創造の根源のなかに住むこと』と別の箇所での記述からもわかるように、自然の造形のプロセス(過程)を外面的にそして内面的に(直観的に)把握し、それを現に作品として造形しているプロセスに反映させたいからなのです。

すなわち、彼が必要としたのは、現に存在している自然の対象物そのものを模倣するのではなく、@自然が対象物を造形するプロセスの概念を模倣して、自らが新たなものを生み出すことと、そしてAこれを生み出す過程において、当然多くの選択肢が存在する訳ですが、生み出された作品が人間に最も感動を与えるように、模索するためのプロセスを見つけることなのです。

これが、彼の作品が「自然の対象物との対話によって到達した段階を越える」ための方法なのです。

無「本質」的分節の具体的な方法を、日常の言葉で説明することは容易ではなく、ここではパウル・クレーの造形手法を「たたき台」にして考察を進めてきたのですが、なにやら仏教思想に近づいていく予感がするのです。この続きは次回【U】で考察します。

2013.3.3