諸行無常とシステムダイナミックス

諸行無常は原始仏教の基本思想で、この世の一切の現象は変化するという意味です。システムダイナミックス(System Dynamics)とは、この世の一切の現象は変化するという動的挙動(ダイナミックス)に着目して、対象とした現象が生起する、複雑・多岐にわたる因果関係(「縁起」)で相互作用する具体的な仕組み(システム)の構造を、電脳の能力を借りて明らかにする方法のことです。

言い換えれば、システムダイナミックスとは、仏教の基本思想を、現代の科学技術を用いて実証し、今後の人間の生き方の方向づけをしようとするものです。

「無常」に関して、多くの日本人が引用する「方丈記」の最初の文を次に記します。

『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。』

ここでの注目点は、「水の流れ」とこの流れによって生じる「うたかた(泡沫)の変化」さらには「この世の中の人間と、その住みかも、このようなものである」という視点で鴨 長明(1155〜1216)が観察しているところです。

昔から日本人は、自然現象と人間やその営みを同じように捉えることを受け入れているのです。

前回は、自然科学と人間やその営みを同一の土俵で取り扱うN.ウィーナー(1894〜1964)のサイバネティックスの思想の考察でした。

無機物である水の流れやそれによる変化と、人間やその営みを同一の土俵で扱うという考え方は、システムダイナミックスの原点なのです。

システムダイナミックスは、この「流れ」と「変化」に着目して、システムを構築する方法で、電脳システムの常套手段でもあるのです。

まず対象とするシステムを構成すると考えられる多数の構成要素を想定し、それぞれの要素を結節点とする「流れ」の回路網で表現した試作のモデルを構築します。そして各構成要素の数値的な「変化」や、モデル全体の結果としての「変化」を計算し、現実の現象と比較検討し、修正を繰り返すことによって、試作のモデルをより現実に近いモデルに近づけようとする一種の逐次近似法なのです。

人間も脳や神経と各器官との間での情報の流れや、心臓と血管による血液の循環など、情報や物質、エネルギーの「流れ」で構成される一つのシステムと見なすことができます。前回考察した原始仏教で人間の構成要素を五薀(ごおん)で表現したことは、卓越した考えなのです。

このシステムダイナミックスの特徴は、国とか、都市とかといったきわめて広域的な社会・経済や環境などの現象を扱うときの、複雑で多岐にわたる相互依存関係で成り立つ大規模なシステム(仕組み)を大局的に見極めようとするときに効果のある方法です。

ただし想定したモデルが現実に即した合理的なものでないと、誤った結果を導く可能性も十分にあり、モデルの構築にあたっては、現実の世界での各構成要素間での相互作用の詳細な実験や調査研究が必要なことは言うまでもありません。

このようなシステムすなわち人間と自然とが密接に相互作用するシステムを構築するには、まさに文系と理系の専門家が協調して本気で取り組むテーマなのです。

世界モデル

現代では、人間社会をも含めたこの地球を、構成するそれぞれの動的要素が、互いに物質やエネルギーあるいは情報の「流れ」の相互作用によって有機的な関係が成立し、全体としてまとまった機能を発揮するような仕組みとして、捉えようとする研究がなされています。

このような多数の要素による複雑、多岐にわたる相互作用の扱いには、電脳の助けを借りないと不可能なのです。

この世の一切の現象を、「構成要素間の相互作用」とそれぞれの要素の「状態変化」を基に組み立てられた構造が、有機的に作用し全体としてまとまった機能を発揮するシステムダイナミックスの考え方は、仏教思想の「この世の一切の現象は、無常であり、縁起によって生起する」という基本思想や「この世の一切は、理事無礙、あるいは事事無礙である」や「六相円融義」などの「融合の世界」を提示する華厳思想の現代版に相当するものなのでしょう。

さて、これからは、鴨 長明よりさらに380年も前の、日本の偉大な天才といわれている弘法大師空海(774〜835)の話に移ります。

空海に関しては、このHPの見出しのテーマ「華厳経の風景」のエピソード編の「17.空海/「華厳経の風景」の元祖」や「19.空海密教のカオス的世界観」などで考察しています。

今回も空海の思想に関しては、梅原 猛 著「空海の思想について」(講談社、1980年1月、講談社学術文庫)を参考にします。

空海の思想をわかりやすく説明するために、「流れ」と「変化」という視点で捉えた、下表(表1)を提示します。

表1.大自然を「流れ」によって生ずる音源として捉え、人間の言葉との関係性から、これらの融合を考えた空海 表1.大自然を「流れ」によって生ずる音源として捉え、人間の言葉との関係性から、これらの融合を考えた空海

ここで、「空」は天空を想定して、太陽からの熱エネルギーの放射と逆に地表から宇宙空間への放射のバランスや雷の放電などを考えることができ、光の放射や電気の流れが考えられます。また「地」に関しては、唯一の個体として、物質を想定し、物質的な環境の変化や物質の移動を考えます。

空海の「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」という書は、「声」を表現する「字」とその対象を表す「実相」(真実のすがた)との関係を説いたもので、空海は言葉による表現的世界を重視しているのです。

この最初と次の句は、『五大に皆響きあり 十界に言語を具(ぐ)す』で、五大とは地水火風空の物質的存在です。空海はこの五大(自然の物質的存在)を「流れ」によって生ずる「音響の変化」として捉えることに着目したのです。

十界とは、仏教のそれぞれの階級の世界をいうのですが、この音響がそれぞれの階級の人間の「識」に感応し、音声が発せられ、それぞれの言葉が生まれるということです。

つまり、それぞれの階級の人間の言葉は、大自然の変動を拠(よりどころ)として、無「本質」的分節がなされ、生起したということです。

なお空海は、「存在」を色や形で捉える「顕色」や「形色」、つまり静的なるもの、空間的なるものとしての捉え方と、「存在」を生滅したり相続したりする動的な現象として捉える「表色」、つまり動的なもの、時間的なものとしての捉え方があることを指摘しているのです。

次に「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」という書の、最初の句は、『六大無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり』と書かれています。

六大とは大自然の構成要素である五大と人間の「識」を加えたものです。この六大の「存在」を表1のように動的、時間的な現象すなわち作用・機能として捉えることにより、それぞれの存在が互いに相互依存の関係で働き、全体が有機的なシステムとしての思考が可能となり、あたかも里山のように、自然と人間とがより豊かに共存できる、「六大」システムが想定できるのです。

「六大無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり」とは、六大が互いにさまたげあうことがなく、すべてがすべての中に含まれ、すべてが融合しているという意味です。

この空海の思いは、現代、電脳によるシステムダイナミックスとして研究がなされ、人間が大自然に対してどのような生き方をすべきかの指針を与えているのです。

無常の世の中で美を発見する

このシステムダイナミックスの考え方に関連して、もう一人の日本人を紹介しなければなりません。このHPでも、再三再四にわたって検討している井筒俊彦(1914〜1993)とその著書「意識と本質」((株)岩波書店、1991年8月、岩波文庫)で記述されている、特に無「本質」的分節に関することです。

ここでは人間の意識とは何かを詳細に考察しているのですが、この本の核心とも言うべきZ〜]では、仏教、特に「禅」における「悟り」の境地や空海の樹立した深層意識的言語哲学についても記されています。

もちろん、システムダイナミックスの考え方は、日常の経験的世界すなわち有「本質」的分節の世界なのですが、有「本質」的分節の構造を理解した上で、「存在」や「本質」を固定しないで、流動的に考えることで、無「本質」的分節にも適用できると考えています。

ここではこの本の中の思い当たる部分の記述を、断片的に引用し、示します。

(1)『全体的構造としての禅はもっと遙かに動的だ。少なくとも第一義的、第一次的には、禅は全体的に、一つのダイナミックな認識論的・存在論的過程(プロセス)、あるいは出来事(イヴェント)、として捉えなくてはならない。』(p142)

(2)『禅の説く「無」は、意識的事実としてもまた存在論的事実としても、・・・無であっても、静的な無ではない。それは本然の内的傾向に従って不断に自己分節していく力動的、創造的な「無」である。真空は妙有に転成する、というより、転成せざるをえない。』(p158,159)

(3)『分節(U)の次元に現成する事物のこの徹底した存在的透明性と開放性が、ひとえに分節(U)の無「本質」性によるものである・・・。「本質」で固めてしまわない限り、分節は「もの」を凝結させないのである。・・・。すべてが、黄檗(おうばく)のいわゆる「粘綴(ねんてつ)無き一道の清流」(どこにも粘りつくところのない、さらりとした一道の清流)となって流れる。「粘綴なき」この存在分節の流れは、「もの」と「もの」とを融合させる。華厳哲学では無「本質」的に分節された事物のこの存在融合を「事事無礙」という。』(p166)

(4)無「本質」的分節によって『現成する「想像的」イマージュを、哲学的、または存在論的に、・・・「質料性(あるいは経験的事実性)を離脱した似姿」という。・・・これらの「似姿」を、また「宙に浮く比喩」とも呼ぶ。・・・つまり、存在次元の「移し」によって、物質的、質料的な経験界の存在次元から、非質料的存在次元に「運び移され」て、そこで異次元的に、「宙に浮いて」いる存在者である。・・・

質料性を欠く「比喩」は物質的事物の「似姿」であり、影のように儚(はかな)く頼りないものである。が立場を変えてみれば、この影のような存在者が、実は、経験的世界に実在する事物よりも、もっと遙かに存在性の濃いものとして現れてくる。』(p202〜204)

ここで、(1)は禅の全体構造は、動的な過程(プロセス)として捉えられること、(2)は、「無」についても力動的なカオスとして捉えられ、創造的な何かを分節する可能性があるということです。

(3)は、無「本質」的分節によって現成する事物は、「もの」と「もの」とが融合する透明性と、「もの」と「もの」とが密接に相互作用する開放性があるということです。(4)での、「物質的、質料的な経験世界の存在次元から、非質料的存在次元に運び移す「比喩」」とは、経験的存在次元を、物質、エネルギーや情報の「流れ」とその「変化」として捉える「回路網」で表現することなのです。

これらの引用からわかるように、システムダイナミックスの考え方とよく似ていると思いませんか。

以上、私がここで主張したいことは、システムダイナミックスの考え方で、現実の複雑な社会の変化を予測するだけではなく、電脳を利用して創造的な何かを生みだす、無「本質」的分節を可能にするシステムとして、応用できないかということです。

前々回で考察したように、画家パウル・クレー(1879〜1940)は「運動」に着目して、人間の深層意識に感応する美を見出したのでした。

2014.3.2