抽象化の終着点、 「真如」・「如如」は 仮名

抽象化の終着点、 「真如」・「如如」は 仮名

今回も前回の続きです。今回は抽象化を高めていった終着点とは、何を意味するのか、を考察します。

今回はこのHPで再三引用している井筒俊彦の著作の最後の作品といわれている「意識の形而上学−「大乗起信論」の哲学」(中央公論新社、2001年9月)を取り上げて考察します。

井筒の著書の中で、たとえば「意識と本質」などでは、かなりの量を仏教思想の考察に充てているのですが、今回の著書は、これまでの仏教思想の考察の結論的な意味合いがあるのではと、私には思えるのです。

井筒俊彦のすごいところは、仏教の「分別」の代わりに「分節」という言葉を使うのですが、仏教では嫌われる「分別」に着目し、「分別」とは何なのかを徹底的に究明することから、「無」とか「空」とか「真如」とかの意味を、導き出していることなのです。

また前回考察した木構造で、分岐する箇所を「節」と呼ぶことからも、井筒の現代的合理性を知ることができ、これは井筒の文章が理解しやすいことを意味するものです。

抽象化の視点から導かれる「真如」の意味

前回、高度に抽象化された事柄を、言葉で説明するときには、「〜の如くである」と比喩で表現することになることを考察しました。

抽象化の構造は、前回の図1の木構造で表されます。一般に木構造で、線で表される部分を「枝」と呼び、この枝が分岐する場所は円で表され、これを「節」と呼びます。ただし木構造の最上部の頂点の円は「根」と呼びます。

前回の図1の抽象化の度合いが高くなる方向と木構造との関係で、木構造の頂点の円すなわち「根」は、抽象化の終着点を意味します。言い換えれば、抽象化の終着点は、究極の普遍、すなわち概念的に、この世の一切の事物を包括できる機能をもつ場所に相当します。

ここで、抽象化とは概念上の作用で、当然物は存在しないわけで、仏教でいう「無一物中に無尽蔵あり、花あり月あり楼台あり」に対応する場所に相当します。

さらに、抽象化の終着点とは、いわば究極の比喩で表現されるべきところであって、一切を「〜の如くである」で欠けめなく表現できるという意味で、仏教でいう「真如」に対応すると考えられます。

また「「〜の如くである」の如くである」とも表現でき、仏教でいう「如如」に対応するとも考えられます。

以上のように、抽象化の究極を考えたときの木構造の頂点を、「真如」とか「如如」と命名するのは、少し意味があることなのですが、これを仮に、「宇宙」とか「世界」と名付けようが、仏教でいう「空」とか「無」と名付けようが、さらには井筒が「意識と本質」で考察しているように、一切の事物が融けて混ざり合っている「混沌」とか、あるいは「意識・存在のゼロ・ポイント」と名付けようが、特に問題はないのです。

この理由は、抽象化の度合いが高くなればなるほど、それを言葉で表現しようとすると、広範囲の事物を包括できるような意味合いの表現が必要になり、結局「あいまいもこ」の言葉を用いることになるのです。究極の抽象化すなわち抽象化の終着点では、言葉を用いる意味が弱くなるということです。

井筒による全一的「真如」を表す「離言真如」と「依言真如」のモデル

今回の引用文献のp45で、井筒は『起信論』の説く「真如」を理解するために、そのモデルとして簡単な構造図を提示しています。

これは上層と下層の空間にわかれた二層構造であって、上層(A空間)は仏教でいう「空」とか「無」に相当する領域、下層(B空間)は仏教でいう「色」に相当する領域です。この構造図については、既に井筒の著書「意識と本質」で、仏教の修行道程の向上道の過程として記述されているのです。

これに関してこのHPで、「「無」から「有」を生み出す東洋思想」シリーズの「仏教の「悟り」の後に現成する「存在構造」は自己相似集合(T)」での図2で図として提示しています。

すなわち、上層のA空間は悟り(覚)の境地であり、一切の事物相互間を区別する分節線がきれいさっぱり一掃された「混沌」の情態で、これは無一物という意味で「無」とも解釈でき、空白として表現されます。

下層のB空間は、未悟(不覚)の情態で、一切の事物がその境界を示す分節線で区別され、いろいろの形状の事物でB空間がびっしり埋めつくされている様態として表現されています。

井筒は、この「真如」の双面的二重構造について、p41以降で、『起信論』の説く「真如」は、言語を超越し、一切の有意味的な分節を拒否するかぎりでの「離言真如」(A空間)と、言語に依拠し、無限の意味文節を許容するかぎりでの「依言真如」(B空間)とが同時に存立している、と記しています。

ここで特に、A空間の「離言真如」についてのより具体的な説明は、

『表面的には、ただ一物の影すらない存在の「無」の極処であるが、それはまた、反面、一切万物の非現実的、不可視の本体であって、一切万物をうちに包蔵し、それ自体に内在する根源的・全一的意味によって、あらゆる存在者を現出させる可能性を秘めている。これは存在と意識のゼロ・ポイントであるとともに、同時に、存在分節と意識の現象的自己顕現の原点、つまり世界現出の窮極の原点でもあるのだ。』

この引用文の内容は、まさに前項で考察したように、抽象化の究極の地点すなわち抽象化の終着点を想定したときの、木構造の頂点そのものであり、「起信論」の説く「離言真如」に対応すると考えられます。

そうすると、木構造の頂点を省く、頂点より下のすべての木構造の領域は,「依言真如」(B空間)に対応し、井筒の記述を借りれば、『言語と意識とが、「アラヤ識」をトポス(場所)として関わり合うことによって生起する流転生滅の事物の構成する形而下的世界』を表すのです。

このように、前回の図1での、抽象化の度合いと木構造との関係図は、井筒の提示する「全一的真如」を表すモデルと一致するのです。

仏教を究めるとは

このHPを立ち上げて、10年近く経過して、そろそろ終了することを考え、どのように締め括ろうかと、頭の中がもやもやとしていたのですが、井筒のこの著書を読んで、鮮明になったのです。その箇所はp46で、

『我々がもしB空間だけを認知して、その実在性を信じ、流転生滅の現象的事物の存在次元のみが唯一の実在世界だと思いこむなら、「起信論」の立場からすれば、B空間はたちまち「妄念」の所産に転落する。つまり、B空間は存在論的妄想の世界で、A空間だけが「真(如)」であるということになる。』

この引用文が、「あたりまえ」と思える人は、仏教を究めていない人なのです。すなわち、現実の世界は「妄念」であると一蹴(いっしゅう)して、「空」とは何かを究明している人なのです。「空」と「色」を分離して、「空」のみを究明しても、最初で考察しているように、特に意味がある智慧ではないのです。

それではどうしたらよいかというと、

『我々がもしB空間は、ほかならぬA空間そのものの本然的自己分節の姿であって、A−B双面的な全体こそ、全一的真実性としての「真如」であることを覚知するなら、B空間は、そのとき、「妄念」の所産であることをやめ、現象的存在次元において現象的事物事象として働く真実性それ自体、つまり形而下的存在次元における「形而上的なるもの」、ということになる。』

要は「意識」の問題なのです。現実の世界に正面から向き合えと言っているのです。我々が生存し生活している現実の世界と自己との関係を、学問的に徹底して究明するならば、妄心動乱する生滅流転の現象的世界だとしても、自己の対応すべきことが明確になり、現実の世界は「妄念」の所産ではなくなり、無限に豊饒(ほうじょう)で創造的な存在分節の世界になるということなのでしょう。井筒はこれを「如来蔵」としています。

なお、アンダーラインの箇所は下記で考察します。

問題は木構造のやや下層から生起する

良きにつけ、悪しきにつけ問題は、木構造の中間より下の領域で起こるのです。人間は、その能力の限界から、きわめて細分化された事物のすべてを理解、把握することは難しく、言葉や日常の経験によって、ある程度まで抽象化された(整理整頓された)事柄として把握しているのです。井筒はこれを「本質」と呼んで、日常の世界は、有「本質」的分節の世界なのです。

一般に、この世の現象を、普遍的に理解することが、大局的に理解する上で重要なのですが、だからといって特殊を無視すると、とんでもないことが起こるのです。近頃の日本での自然災害なども、これを物語るものなのでしょう。

これは鈴木大拙の主張する思想でもあるのですが、前々回、井筒の記述を借りて、仏教の修行の道程を、第一段階(未悟の情態)、第二段階(悟りの境地)と第三段階(已悟の情態)として説明しています。この第一段階での理解が問題なのです。

今接している海や山が、「穏やかで、美しい」という概念で対応していたことが問題で、人間の能力ではいつ起こるかわからない、「津波の起こる海」とか「噴火が起こる山」という意識が、日常で希薄であったことは事実なのです。

すなわち、「特殊」、木構造で言うきわめて細分化された領域、最下層の領域を軽んじてはいけないと言うことです。

アンダーラインの箇所、「現象的存在次元において現象的事物事象として働く真実性」を正しく(学問的に)把握する必要があるのです。

以上のように、仏教を究めるとは、抽象化(普遍化)の木構造を理解した上で、「色」とは何なのかを究めるということなのです。これを実践するためには、物理学、数学、そして電脳の助けを借りることは必須といえるのです。文系と理系の融合は、「将来の理想」ではなく「当面の問題」なのです。

はじめに展示した画像は、電脳が生み出したものですが、いろいろな色の形状の集合体として、一切の事物がびっしりと詰まってひしめき合っている現象的世界(B空間)とも解釈できます。しかし全体的には、「入れ子」構造が成立し、これは木構造や自己相似集合の関係性の世界を意味し、これを「かいま見る」ことのできる世界であるとも解釈できます。

この「普遍」と「特殊」との双方を、すなわち木構造全体を、理解することが、「あるがまま」(全一的真如)ということなのでしょう。

2014.10.5