抽象化と分類学、そして仏教の世界観

前回考察したように、仏教を究めるとは、「空」と「色」の双方すなわち全一的真如を究めることなのですが、この関係は木構造として表現でき、この木構造の下層の領域は、より細分化された領域であり、量的にも質的にも人間の能力では完全に把握することは困難な領域です。

したがって、木構造全体を理解するためには、木構造の下層の領域を、如何に正確に把握するかに掛かっているのです。すなわち「色」を如何に究めるかが最重要なのです。これは現実の世界に正面から向き合うことなのです。

今回は、抽象化に関連して、分類学と仏教の世界観から、「色」を究めるとは、どういうことかを考察します。

抽象化と分類学

抽象化の具体的な例として、最もわかりやすいのが、分類学なのですが、今回はこれについて考察します。この分類の「類」には、「よく似て同じグループに属するもの」という意味があり、分類という言葉にも、分割と統括の両方の意味があるのです。すなわち同じようなものを一括するとは、それらを他から分けるということなのです。

元来、分類学は、この世に存在する多種多様な生態系を人間が把握するために、生物学で発展した学問ですが、現在生物学的に確認されているのは、200万種程度といわれています。ただしこれは氷山の一角で、確認されていないものを含めると数千万種の生物が生息していると考えられているそうです。

18世紀に「分類学の父」と呼ばれるスウェーデンの植物学者カルル・フォン・リンネ(1707〜1778)が著書「自然の体系」の中で、「種」を生物分類上の基本単位として、体系的に名を付け、階層的分類体系の基礎を確立するのです。

下図(図1)は、リンネの考案を基にした現在の分類階層を示したもので、植物のイネを例として示していますが、これはここで考察している段階的に抽象化していく過程すなわち木構造の過程そのものなのです。

生物を抽象化して表現したときの階層的分類体系
図1.生物を抽象化して表現したときの階層的分類体系

この図で興味深いのは、分類階級の日本語名なのです。たぶん日本の学者がリンネの著書を翻訳するときに表現されたものと推察されますが、素人の私にはこの経緯はわかりません。興味深いのは、分類階級での、門、綱、目という漢字とその順位です。

広辞苑を引くと、「綱目」の意味は、「(「綱」は網の大綱、「目」は網の目の意)物事の大要と細目」とあります。

これはこの後で詳細に考察する仏教の世界観を表す「網の目構造」の意味を解釈する上できわめて興味深いのです。もちろん、仏教思想とリンネの階層的分類体系とは、全く関係のない事柄なのですが、世界を体系的に捉えようとする基本的な考え方に関しては共通点があるのです。そしてこの「網の目構造」が記されている仏典が、華厳経の「十玄縁起無礙法門義(十玄門)」なのです。

仏典の記述には、数字によって分類されるものが多く、数学、分類学的に整合性があるように思えるのです。

分類学と華厳経の世界観

現実の世界は、細分化された無数の事物であふれており、人間の限られた能力で、これらを明確に把握することは、難しいのです。

これらの全体を明解かつ効果的に把握し、そして自己との関係や自己のあり方を理解するには、これら細分化された無数の事物を、できるだけ細分化される前の状態に戻してやり、人間の能力で理解できるように系統的に整理することが必要であり、このための学問が分類学なのです。すなわち、この世のありとあらゆる事物をどう捉えるかという学問が分類学なのです。

仏教に関しては、このHPの前半の華厳経に関連したところで、既に考察していると思われますが、「理事無礙法界」とか「事事無礙法界」という世界観があります。このHPを立ち上げた頃、勉強させていただいた竹村牧男先生の著書「華厳とは何か」((株)春秋社、2004年3月)のp187の近傍に、この詳細は記載されていますが、その一部を引用します。

『事は「依他起性」(縁起の世界)であり、理は「円成実性」(真如・法性)となります。この両者の関係を唯識にあっては、非一・非異(ひいつひい)と説明しています。・・・もう少し具体的に、たとえば桜という特殊と、木という普遍の関係においてみてみますと、・・・桜は特定の種類の木ですし、木はあらゆる種類の木を含みます。この点では、異なっているという他ありませんが、桜は木の中の一つですから、木とまったく異なっているわけでもないのです。

こうして、両者の間に同じともいいきれないが違うともいいきれないという、非一・非異の関係をみることができます。

縁起の世界(事)と、その本性としての真如・法性(理)との関係、論理構造も、それと同様だというのです。ただしその理は、桜に対する木といった一定の普遍、有限な普遍ではなく、究極の普遍、最高の普遍としてむしろ限定しえないものなのでした。

この記述は、まさに分類学そのもので、「事」と「理」との関係は、分(分割・特殊)と類(統括・普遍)との関係すなわち木構造の関係なのです。

アンダーラインを引いた、ただし書きの意味は、特殊と普遍との関係において、抽象化が一段上のレベルとの関係ではなく、桜と植物とか、桜と自然などのような、抽象化の度合いが高い普遍との関係をいっているのです。植物とか自然とかの本質は、きわめて広い意味ですので、この本質で、「事」が直接的に限定や拘束されることはないのです。すなわち事と理は礙(さまた)げあうことなく溶け合っている事態として表現できるということです。

ここでの「有限な普遍」と「究極の普遍」について、もう少し考察します。 分別以前の状態に戻すときに、いきなり「世界」という枠組み(共通点とか本質)で抽象化したら、一切の事物が含まれてしまい、それぞれの複雑な相互関係の仕組みを逐一理解することはできないのです。

抽象化してあらゆる物事の相互関係を理解するためには、順番に抽象化のレベルを一段ずつ上げていき、そこで括られる事物の相互関係を目で見ることによって、すなわち、徐々に範囲を拡大しながらその相互関係を理解することによって、最後にその頂点に立つ「世界」が理解できるのです。したがって、抽象化の過程で、「有限な普遍」とか「有限の理」を仮設し、階層的に順を追って、すなわち木構造として理解していかないと、人間の能力では理解できないのです。

人間の能力で最も理解しやすいのは、順を追って目で見て理解することが可能な相互関係図、すなわち機械的な構造として表現することなのですが、分類学は世界を階層的構造あるいは木構造として順次抽象化のレベルを上げていき、理解していくのです。

実は、仏教の華厳経においても、世界を把握するのに、階層的構造や木構造を暗示するような構造があるのです。

この引用文献のp197以降には、「事事無礙法界」の論理構造として、法蔵の「華厳五教章」の中の「十玄縁起無礙法門義(十玄門)」の解説がなされています。ここで「門」とは、入り口が転じて、最初の手引きという意味と思われますが、十の門のうちの四番目に、「因陀羅微細境界門(いんだらみさいきょうかいもん)」という項目があります。この内容は、因陀羅(帝釈天)の宮殿の大広間にかかっている飾りのための網の結び目の一つ一つに宝珠がつけられ、それらが互いに映じあうところから、世界の一切の事が互いに関連しあって存在するという、比喩での表現がなされているのです。

それでは、この「網の目構造」が、なぜ階層的構造や木構造に対応するかの考察に移ります。下図(図2)は、四角形の自己相似集合図形を作成するときの過程を示したものです。

「網の目構造」と「入れ子構造」と「木構造」
図2「網の目構造」と「入れ子構造」と「木構造」

いま四角形の網を考え、この網の一番外側の四角形(1)ですが、これは網全体を意味します。次にこの四角形の内部を四等分した4個の四角形(2)、そしてそれぞれの四角形をさらに四等分した合計4X4=16個の四角形(3)、さらにそれぞれの四角形を四等分した合計4X16=64個の四角形(4)、・・・という様にしていくと、これらはすべて「網の目構造」を意味し、かつ(1)は(2)を包括し、(2)は(3)を包括し、(3)は(4)を包括するという「包摂(ほうせつ)関係の構造」すなわち「入れ子構造」に相当するのです。

そしてそれぞれの四角形を四分割しているということは、一番外側の四角形(1)を「根」すなわち頂点とする「四分木構造」を意味します。既に考察しているように「包括」と「分割」は作用の方向が逆なだけです。

以上のように、「自己相似集合図形の構造」、「網の目構造」、「入れ子構造」、そして「木構造」とそれぞれ呼び名は異なりますが、同じ構造といえるのでしょう。すなわち仏教の世界観と分類学の世界観は、同じと言えるのです。

ただし、リンネはこの考え方を学問的に誰でもが実践できる道を付けたことに意味があるのです。要は単に思想だけにとどまるのではなくて、現実の世界で貢献しているということです。

2014.11.9