「仏教思想の根幹を数学で解釈する」以後、おもに「統合」と「分割」の関係について、抽象化と具現化を表す木構造の視点から考察を行ってきました。
日常の言語は、その言葉の意味が固定化(実体化)することによる弊害、例えば「妄念」とか「執着」が生起する原因となり、仏教では批判の対象になるのです。しかるに、一切の物事を数で抽象化した数学という言語は、変化を表現する数のみの言語ですから、この数学的センスで仏教を解釈することは、理に合っているという背景があるのです。
これらの考察で、おもに拠(よりどころ)としているのは、鈴木大拙の「仏教哲学における理性と直観」という文献なのですが、「仏教でよく用いられる比喩と数学的センス」で考察した、「般若直観」・「空」の「場」の作用について、引用した文の最後のアンダーラインの部分、を再度示します。
『自己自身を分化せしめ、しかも同時に未分化の情態にありつつ永遠に創造の作用を続けていくもの−−これが空である。これが般若の場なのである。』
前半の「自己自身を分化せしめ、しかも同時に未分化の情態にあり」については、前回までに「統合」と「分割」の関係、すなわち木構造として考察してきました。今回は、後半の「永遠に創造の作用を続けていくもの−−これが空である。これが般若の場なのである」についての考察です。
ここで気になるのが、「般若」とは何なのかなのです。
ここでの考察の拠として、梶山雄一著「般若経」(中央公論社、1976年2月)を参考にします。
この新書本の表紙の折り返しの所に、「八千頌(じゅ)般若経」を基に、「般若波羅蜜(はらみつ)」「不住涅槃(ねはん)」「廻向(えこう)」「巧みな手だて(方便)」など、空思想の源流を平易に伝える入門書、という趣旨が記されています。
実はこれらの仏教用語から、大拙のいう「永遠に創造の作用を続けていくもの」というイメージが導き出せそうな予感がしたので、この本を選んだのです。
以後、これらの仏教用語に関連させて「般若」について考察していきます。
「般若波羅蜜(多)」は、誰でも知っている「般若心経」の初めに出てくる用語ですが、このお経に出てくる「空」と「色」の関係は、木構造で表現でき、「空」という頂点を認識するためには、その下方に、富士山のすそ野のように広大に広がっている「色」という現象の世界を、正道として(学問的に)理解する必要があるというのが、いままでの考察でした。
この本では、般若は「智慧」を、波羅蜜(多)は「完成、極致」を意味し、大乗仏教の修道徳目として六種の波羅蜜、すなわち、布施、道徳、忍耐、努力、瞑想、智慧という六種の完成が説かれていますが、その第六が「智慧の完成」つまり「般若波羅蜜(多)」である、と記されています。これは、現実の世界で、第一から第五までの修行を実践しその完成に導くことが、第六の智慧(悟り)の完成に集約されるということです。
六種の波羅蜜の完成とは、現実(「色」)の世界を、正面から向き合って、正道として生きることなのです。すなわち智慧とは、人が第一から第五までの波羅蜜を実践して、生きることの事柄に関するはたらき(全知)を意味します。
以後、これが何を意味するのかの考察です。
「八千頌般若経」の第四章には、次のような文章が記されています。
『いろいろな色をし、いろいろなかたちをし、いろいろな葉をもち、いろいろな花をつけ、いろいろな実をみのらせ、いろいろな高さや周囲をもった、いろいろな樹木があるけれども、それらの樹木の影には区別も変差も認められない。・・・
ちょうどそのように、カウシカよ、これらの六種の完成(への修行)は、巧みな手だてを伴い、智慧の完成のほうへ廻向(ふりむけ)され、全知者性のほうへ廻向(ふりむけ)されているとき、何の区別もなく、また種別も認められないのである。』
ここでは、般若経の思想でもある「不二」の思想と「廻向(えこう)」の思想が比喩として言及されているのですが、この比喩には、大変深い意味があるように思えるのです。
「不二」とは、すべての事物は、「空」に統合されるから、いかなる区別もないという意味であり、より具体的には、「煩悩」と「涅槃」、「迷い」と「悟り」、「色」と「空」など、対立した二つの世界があるのではなく、あるのはただ一つの世界であるとも解釈できます。
『「廻向」という語は「むきを変えさせること」の意味で、「変化させ、発展させること」を含意する。・・・
それが「般若経」になると、本来はそれぞれ異なった目標に向かっている道徳や宗教の諸徳目を、全知者性という唯一のそして普遍的な真理の達成という方向にむきを変えさせる、という意味で使われるようになり、大乗仏教においてきわめて重要な意義をもつ術語に発展していく。』と記されています。
「廻向」とは「振り向ける」とか「転換、変換」を意味し、数学的にも重要な意味をもち、新たな事柄を生み出す(創造する)方法に関わる術語です。ここでは六種の波羅蜜のように、倫理の領域から悟りの領域に転換する、という意味で使われるのです。ここで全知者性とは、ブッダのように悟りによって全知を得た智慧と思われますが、これが普遍的な真理の達成ということであれば、ここでの廻向の具体的な作用は、抽象化を意味するものと考えられます。
ここで一つ前の引用文、「樹木の影」の比喩についてのアンダーラインの部分を考察します。
アンダーラインの文章の前半、樹木の色、全体としての形、葉、花、実、高さや幅、がいろいろある、ということは、樹木の構成要素の中で区別することができる特徴的な要素を列記したものです。ここで記されていない要素は、幹と枝であり、後半の「樹木の影」とは、冬で落葉し、とうぜん花も実も存在しない、幹と枝のみの配置の二次元パターンを意味しているのです。
多種多様な樹木に対して、冬に落葉した木の影、すなわち木の幹と枝の構造を、すべての木の共通点として捉えていることが、現代でも通用するきわめて新鮮な発想なのです。
この共通点で抽象化すれば、すべての樹木を、一括して統合でき、区別する必要はないという「不二」の思想を表していると考えられます。
さらに、前回まで考察してきた抽象化における木構造そのものの説明でもあるのです。フラクタル幾何学で、いろいろな植物を描画するときには、「自己相似性」という共通点を利用して、まず基本的な幹や枝の構造を電脳で形成し、そこに独特の色や葉、花、実などを、これも電脳で付加することで、特定の植物を生み出すのです。これは具現化に対応する技術です。
電脳でフラクタル図形を習得するときに、わかりやすい基本例として最初に学ぶのが、この木構造なのです。これらに関しては、「涅槃寂静の世界」シリーズの「「共通」と「多様」の複眼的視点/「不一不異」」というテーマで詳細に考察しています。
自然界のすべての形態の中に、「自己相似性」が潜んでいることを洞察することは、現代の智慧といえるのでしょう。そして人間の深層意識に蓄積されている共通的な形態にも、この「自己相似性」が潜んでいると考えています。
「自己相似性」もその一つですが、この世の多くの事物の中に潜んでいる共通点を洞察することが、智慧の完成を志向することであり、そして新たな事物を生み出す創造とは、抽象化や具象化の新たな道筋すなわち木構造における新たな枝分かれの経路を生み出すことなのです。
上記で考察してない用語について、ここで考察します。ただし「涅槃」については、このHPでも数多く考察しているので、要旨のみにとどめます。
「涅槃」とは、煩悩の炎が「吹き消された状態」を意味し、煩悩としての無知や欲望が原因となって自己の未来に「苦」を導く輪廻転生の悪循環の世界を、自己の修行の完成で、止滅(解脱)させることなのです。ただしこれは自己の救済を意味するものです。
しかるにこの世の他の人々、社会を救済するためには、自己の修行を他者の救済のために「ふりむける」必要があり、「涅槃」に安住せず、すなわち自己の充実のみに満足せず、他者のために永遠に修行を実践することを「不住涅槃」というのです。そしてこの世の人々のために修行を繰り返し継続する方法を、「巧みな手だて(方便)」というのです。
このように、「般若波羅蜜」すなわち「智慧の完成」のための修行は、永遠に継続して実践していくことが、現実の世界に貢献するための、巧みな手だてなのです。
以上が、最初に提示した鈴木大拙の「般若直観・空の場の作用」についての引用文の後半、すなわち「永遠に創造の作用を続けていくもの」についての考察です。
この前半の「自己自身を分化せしめ、しかも同時に未分化の情態にあり」については、前回までに考察した、「統合」と「分割」の関係、すなわち抽象化と具現化を表現する木構造を意味し、今回考察した「樹木の影」の比喩に相当するものでもあり、「智慧の完成」の機能・作用の前半を示しています。
前回の考察は、抽象化と具現化を表現する木構造のわかりやすい例として、階層的分類体系について記しました。この分類体系も固定化することはなく、生物の分類を担う生物学者は、この分類体系を常に刷新するために、日夜、忍耐強く精進を続け改編を繰り返しているのです。これが現実の世界に貢献することなのです。
既に考察していますが、井筒俊彦がよく使う言葉を借りると、「悟りの境地に達すると、世界が一挙に変貌し、あらゆる事物が融けて流れだし、存在世界を埋めつくしていたあらゆる事物の分節線(境界線)が消えて、混沌の状態になる」という趣旨の表現です。
これは何を意味するかというと、あらゆる事物の中に潜む共通点を発見することで、この視点で事物を見たときには区別がつかなくなるということです。
すなわち「融合」とは、事物の中に潜む共通点を発見することなのです。これは、いろいろな事物の共通点を抽出して、抽象化することを意味します。
このHPでもよく主張している、文系と理系の融合とは、文系と理系のそれぞれの考え方の共通点を見つけ出して、この視点で、いろいろな事物の「解」を求めよということなのです。
これが、「仏教を数学で解釈する」ということの主旨なのです。「自己の究明」とは、世の中のあらゆる事柄に潜んでいる「自己相似性」を究明することで、世の中を構成している一員であるという関係性を自覚することです。
このためには、少なくとも、文系は理系の学科を、理系は文系の学科をある程度修得する必要があるのです。これが、「仏教を究めるとは、「色」を究めること」の主旨なのです。
木構造のある特定の狭い領域を専門的に徹底して追求することは、当然必要なのですが、そこで得られた結果を、この世の人々に役立てるために、「ふりむける」「巧みな手だて」も必要で、これには木構造全体を自在に扱える広域的な知識も欠かせないということです。
これが、鈴木大拙のいう「自己自身を分化せしめ、しかも同時に未分化の情態にありつつ永遠に創造の作用を続けていくもの」ということであり、すなわち「特殊」と「普遍」を自在に扱えることが「智慧の完成」なのです。