「宝王如来性起品(ほうおうにょらいしょうきぼん)」での「日はあまねく一切の大地を照らす」文献(1)のイメージ画像です。この画像は何らかの「作為」が感じられるようにも思われますが、電脳が無作為に生み出した中の一画像を、たまたま私が見つけて、ここに展示したにすぎないのです。私は電脳空間という森をさまよう写真家なのです。
ところで、「華厳経の風景」についていろいろな視点から論ずる場合に、どうしても取り上げねばならない視点として、仏教を美の形で追求した柳 宗悦(むねよし,1889〜1961)の生涯の理念があります。ちょうど今年は、自らが設立した日本民藝館開館(1936年10月)70周年にあたります。
柳 宗悦は数多くの著作物を世に出しており、今後何回かに分けて、その思想の一部を、「華厳経の風景」との関連に沿ってその感想を記述したいと思っています。
今回は、陶器に関する著作の一つである「「喜左衛門井戸」を見る」(柳 宗悦「民藝四十年」、(株)岩波書店1984年11月、岩波文庫青169-1)について記します。この「六」に記述されている一部を引用しますと、「・・・如何なる人為から出来た茶碗でも、この「井戸」を超え得たものがないではないか。そうして凡ての美しき茶碗は自然に従順だったもののみである。作為よりも自然が一層驚くべき結果を産む。詳しい人智も自然の叡智の前にはなお愚かだと見える。「平易」の世界から何故美が生まれるか、それは畢竟(ひっきょう)「自然さ」があるからである。・・・」と「自然から生まれる無作為の美」こそが究極の美であることを力説されています。
「華厳経の風景」、これは電脳による数学的カオスから偶然に生まれた「フラクタル」です。この「フラクタル」は自然界の造形によく一致することが明らかになっています。この茶の湯の茶碗などにも、「フラクタル」は密接な関係があるのです。例えば、「釉薬の流れは墨流しのパターンや乱流にも似たカオスそのものであり、そこには自然界の小宇宙の世界がのぞく。貫入(かんにゅう)のひび割れはフラクタルの枝分かれ現象と同じで、そういえば田んぼのひび割れや稲妻のパターンと酷似しているのではないか。」(三井 秀樹「形の美とは何か」、日本放送出版協会、2000年3月、NHK882)という記述もあります。
柳 宗悦が発見した「自然から生まれる無作為の美」とは具体的に何なのかを、フラクタルとの関連からさらに考察を続けます。