絵心を知らずして描く

絵心を知らずして描く

「入法界品(にゅうほっかいぼん)」の普賢菩薩の偈文(げもん)、「一々の毛孔(けあな)のうちに、無量の諸仏海がおわし、それぞれの道場の華座(けざ)に坐して,浄妙の法輪を転じたまう」文献(1)のイメージ画像です。「法輪を転じたまう」とは仏の教えを広く進転させ伝えることを、輪の転ずるにたとえています。

一般的な数学では、複雑に曲がりくねった曲線でも、その微小な一部を拡大して見ると、ほぼ直線になります。ところがいくら細分化しても、その部分を拡大すると、元の複雑な曲がりくねった曲線そのものが現れるのがフラクタル図形なのです。すなわち毛孔の中に仏の宇宙を縮小して入れ込むことができる華厳の世界はフラクタルの世界なのです。

華厳経を勉強しているときもそうであったのですが、 柳 宗悦の著作を読んでいると、 身につまされる文章が多々あるのです。例えば、下記に引用した「雑器の美」(柳 宗悦「民藝四十年」、(株)岩波書店、1984年11月、岩波文庫青169-1)の「序」の一部です。

「・・・。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号(みょうごう)を口ぐせに何度も唱えるように、彼は何度も何度も同じ轆轤(ろくろ)の上で同じ形を廻しているのだ。 そうして同じ模様を描き、同じ釉(くすり)掛けを繰り返している。美が何であるか、 窯藝とは何か。どうして彼にそんなことを知る智慧があるだろう。 だが凡てを知らずとも、彼の手は速やかに動いている。 名号は既に人の声ではなく仏の声だといわれているが、陶工の手も既に彼の手でなく、自然の手だといい得るであろう。 彼が美を工夫せずとも、自然が美を守ってくれる。・・・」

自然の力という「他力」を作品の中に十分に取り込むには、繰り返しを何度も重ねて、作品を多量に作ることが必要なのです。 これは文章が推敲を重ねることによって洗練されていくように、何度も何度も繰り返し無心で専念することにより、陶工の手は自然の手に変わり、作品は徐々に洗練され、完成度を高めていくのです。 それと同時に、自然特有の不安定さによる変動によって、天才の作品をも凌駕するような作品が与えられる可能性もあるのです。

以上のような柳が指摘する「雑器の美」が生まれる工程と、電脳から「華厳経の風景」を生み出す作業とは、あまり変わりはないのです。 すなわち「ろくろ」を廻して徐々に形を整えていく工程は、電脳で漸化式を反復繰り返しながら演算していく過程と同じ意味なのです。 漸化とは、徐々に変化していくことです。そしてこの演算を数多く繰り返した結果、何が生み出されるかをあらかじめ予想できない場合もあるのです。ただ今までの多くの試行錯誤の経験から、よい結果が得られるであろう手続きをひたすら繰り返している過ぎないのです。 「自然」の中に美の本質が隠されているのなら、「自然科学」の中からでも美を抽出できる可能性があるのではと試行錯誤をしている訳です。

私は芸術が専門ではなく、絵の心得もほとんど知りませんが、自然科学が描くのです。 柳 宗悦も絵心を知らなくても、自然が導いてくれると記述しています。

このようにして電脳から生み出された「華厳経の風景」は、いわゆる「美術品」ではなく、まさに柳 宗悦の言う「工芸品」、「工芸的絵画」なのであります。 そしてこれが最も美しいと評価していますが、 「華厳経の風景」はまだ試作の段階ですので完全ではありません。

これを完全なものにするためには、さらに多くの時間をかけ熟成をさせることが必要で、すなわち 自然の美を十分に引き出すための手法を確立することです。