リカーシブ(recursive , 再帰的)処理という概念を基に、「すべては自己の究明にあり」の項の考察をさらに進展させます。仏教を勉強中の私が「自己とは何か」を軽々しく論ずることは恐れ多いことですが、電脳という幻術をあやつる者の視点から感想を述べさせて頂きます。
recursive の語源的な解釈は、re(元へ) + cur(current, 流れ)で、「流れにさかのぼる(遡上)」という意味があり、「元の状態に戻る」とか「繰り返す」という意味で使われます。また recur to ・・・ で「再び ・・・ に立ち帰って考える」という意味でも用いられます。
ここで自己に焦点を当てると、「自分の中に自分自身を部分的に含む」とか「自分を定義するのに、自分自身を用いる」という意味にも使われます。
このリカーシブ(再帰的)処理という言葉は主に電脳のプログラミングの手法でよく使われる専門用語で、この処理の特徴は「入れ子構造」とか「木構造」を扱うのにきわめて有効な方法で、よって自己相似集合の図形を描くときにも最適な方法なのです。ただしこの具体的な処理の説明は少々難解なもので、ここでは一般的に説明します。実は高校の数学でも扱われているのです。これは帰納的定義とか漸化式と呼ばれているもので、次のように表されます。
上記は漸化式の処理手順を説明するための最も簡単な1変数の式で、当然自己とは何かなどを表現することはできませんが、あえて文章で説明してみます。今ここにいる自己X(n+1)を定義するのに、1ステップ(段階)前の自己X(n)の関数として表しています。即ち自分自身の関わりの世界として表現しています。ここで1ステップ前とは、時間の一定間隔でも、あるいは空間の一定位置間隔のいずれでもよいのです。
そして今ここにいる自己X(n+1)の具体的な値を求めるためには、初期(n=1)からの流れに遡(さかのぼ)って初期の状態の自己X(1)に戻る必要があるのです。この過程もリカーシブ(再帰的)です。そしてX(1)がわかればX(2)が計算でき、X(2)がわかればX(3)が計算でき、このように一段階ごとに演算(修行)を積み重ね現在の自己X(n+1)の値を究明できるのです。
「すべては自己の究明にあり」で引用しているように、自己を究明するときの縁起の世界は、その中に自分自身が含まれ他者やその環境との織りなす無限の関係によって成立しているとして考えることでした。すなわち自分を定義するときに、自分をも含めた無限の関係性の世界から見る見方をとるのです。そしてこの世界は、あたかも入れ子構造のように思われます。
これを別な言葉で表現すれば、自己と他者という分別した状態で自己を考えるのではなく、自己と他者の未分(みぶん)の状態まで遡(さかのぼ)った上で再度考えることだと思います。そしてこれは、あたかも木構造のような多元的に分別された物事を、一体化し(より上位レベルへ遡上し)未分の状態へ戻り、そこを出発点とした処理に対応します。未分の状態はまさに混沌の状態であり、ここを起点として無分別智(予測のつかない何か)を創発する可能性があるのです。
ちなみに、 「重重無尽が行き着く世界」で考察したように、 「重重無尽」という概念から漸化式が導かれたのでした。すなわちリカーシブ(再帰的)処理の概念と重重無尽の概念とに大きな違いはないのです。なお漸化式の英語名は Recursive formula です。そしてこの漸化式が非線形の場合には数学的カオスが発生する可能性があります。縁起の世界は非線形と考えられます。このカオスは自然界や人体などでも、ありふれた現象なのです。例えば、禅定において目を閉じて安静にしているときに出る脳のアルファ波は、カオスだといわれています。
以上のような背景の基に、「華厳経の風景」は生み出されているのです。