即非の論理 / 電脳の成り立ち

即非

今までは華厳経の思想と電脳を用いてのフラクタルとの類似性について、いろいろ考察を行ってきましたが、最近は仏教思想の基本と電脳の基本のそのものが類似しているのではないかと思うようになったのです。そこで今回は電脳の基礎を少々紹介したいと思います。

電脳入門講座

(1)論理学と否定の効用

実は電脳は論理学によって成り立っているのです。ご存知のように、デジタル即ち二進法は、「1」と「0」あるいは「ON」と「OFF」のみです。これは仏教では「有」と「無自性・空」という表現になるのでしょうか。そしてこの二つの状態を「AND(かつ)」、「OR(または)」、「NOT(否定)」の三つの論理演算機能の組み合わせのみで処理し、電脳を実現しているのです。

ここではAND 、ORの機能については省略しますが、「1」と「0」のみで、全ての数を表現し、これらのあらゆる計算を実行するには、「1」と「0」を自在に扱う必要があります。このとき1を0に変換したり、0を1に変換する最も基本的な機能は、当然NOT(否定)演算子が担当することになり、ここで話題となるNOT演算子は電脳にとって必要不可欠な存在なのです。

このNOTの機能について、もう少し現実的なアナログの世界で説明すれば、何らかの状態を制御するときには、まずその反対の状態を作り、それを適当に加えることにより調節するのです。これは政治の世界で、反対勢力が存在しないとうまく機能しないのと同じことなのです。

これをもう少し学問的に制御理論からいうと、ネガティブ・フィードバック(負帰還)制御といい、 現代の電機機器の数多くの制御に用いられ効果を発揮しています。

(2)代入文 / 等号の解釈

電脳を実行するときには、プログラムを記述する必要があるのですが、一般に下記のような記号で記述します。

A = B(※1)
If A = B then ・・・・(※2)
A = A + 1(※3)
A = Not A(※4)

ここで(※1)はご存知のように「A はBに等しい(である)」で問題なく、(※2)も「If 文」という条件判断で「もしA はBに等しければ、・・・を実行せよ」という意味です。以上(※1)、(※2)の記述について, 等号(=)は 「・・・に等しい」、「・・・である」と解釈してよいのです。ところが次の(※3)、(※4)は、よく初心者を悩ませるのです。すなわち「何でA がA+1と等しいの」、「何で A がAの否定と等しいの」という疑問が生じるからです。

実は電脳のプログラム記述の世界では、これらは日常茶飯事のことで、特別なことではないのです。これらは「代入文」と呼ばれるもので、「Aに A+1を代入する」とか「Aを A+1で置き換える」という意味です。もう少しやさしく表現するならば「A はA+1になる」なのです。

普通、等号(=)は be動詞として扱われ「(主語)は(補語)である」と訳されますが、 もう一つ「(主語)は(補語)になる」という意味のあることを忘れてはなりません。

そもそも仏教思想の大前提には、「諸行無常」の概念があります。すなわち「現象世界の一切の存在は、常に変化して、とどまることがない」という意味ですが、自然現象を扱う電脳も全く同じです。「・・・になる」という意味は、広辞苑(第五版)によると「なる(生る・成る・為る)」で「現象や物事が自然に変化していき、そのものの完成された姿をあらわす」とし、@無かったものが新たに形ができて現れる。 A別の物・状態にかわる。・・・などこまごまと記されています。

変化を表現するという前提に立てば、「AはA+1になります」、「AはAの否定になります」と訳せば問題ないのです。なお「代入する」、「置き換える」は「対立構造の共存する世界」で考察したように「相即・相入」を意味するもので、「AにA+1を相即・相入する」と考えてもよいと思います。

(3)特に変化を意識した漸化式

電脳のプログラムでは、等号(=)の左側、すなわち主語が「最新の値」になることは、暗黙の了解になっているのですが、これを明確に定義しているのが漸化式です。今までに何回か漸化式について考察をしてきましたが、このじょじょに変化していく式は、添字付き変数を用いて次のように表示します。

An+1 = f (An). ここで下付き文字 n+1, n を用いて「最新の値」を表すのです。

「今・ここにいる「ぴかぴか」の私 An+1 は1ステップ(段階)前の私An の関数として与えられます」となるのです。1段階とはそのストーリーによって一瞬でも一年でも任意です。したがってA = A+1やA = Not A も厳密にはAnew = A + 1 , Anew = Not A と区別したほうが良いのかもしれませんんが、プログラム記述に手間がかかるので、通常はしません。それに今現在最新でも、一瞬後には(次の式が記述されるときには)古くなる可能性も含んでいるのです。

般若即非(はんにゃそくひ)の論理

鈴木大拙 著「金剛経の禅」(鈴木大拙全集、第五巻、(株)岩波書店2000年5月)の「二、般若即非の論理」の要点を断片的に引用させていただきます。

「「金剛経」は「般若経」の一部である。・・・「金剛経」、詳しく云えば「能断金剛般若波羅密多経」である。・・・般若波羅密の力は、金剛のように、何でも断ち切ってしまう。・・・「波羅」は「向こう岸」という意味で、「密多」は「到る・達する」という意味。・・・

「金剛経」の中心思想として、まず第十三節にある「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」から始める。これを延書きにすると、「仏の説き給う般若波羅密というのは、即ち般若波羅密ではない。それで般若波羅密と名づけるものである」、こういうことになる。これが般若系思想の根幹をなしている論理で、また禅の論理である。・・・ここでは般若波羅密という文字を使ってあるが、その代わりに外のいろいろの文字を持って来てもよい。これを公式的にすると、A はA だと云うのは、A はA でない、故に、A はA である。・・・
山を山と見る時に、先ず、山は山でないと見て、それからまた山と見るというような、まだるこしい論理を好んで行じているのである。・・・」

「金剛経」の中心思想を、「即非の論理」として定式化した鈴木大拙の洞察力や先見性はすばらしいと思います。「A はAでない」とは A = Not A であり、先に考察したように「ただ今 A は 非Aになりました」なのです。そしてこれが永久に続くのではなくて、「山を山と見る時に、先ず山は山でないと見て、それからまた山と見る・・・」と記述されているように、次のステップでは、A = Not A が繰り返されて、本来の A にもどるのです。すなわち A がまず非A となり、非Aを十分に経験した後に再度本来の A にもどったとき、この A は未分の状態( A + 非A )を認識できるのではないかと思います。これが仏が説きたまう(般若の場を経験した) A なのです。

例えば, A を「自己」としますと、非 A は当然「他者」ということになり、自己が他者になってこそ、はじめて真の自己が自覚されるのです。すなわち自己は他者あっての自己なのです。同様に 「白」は「黒」あっての「白」なのです。白と黒を混合すると灰色になって、混沌とした未分の状態を意味します。

以上、「即非の論理」は、「Aが即座に非Aになることによって、仏の説きたまう A になるのです」と解釈できます。

相対する「色」の世界

これからの話は仏教用語の「色」ではなくて、カラーの色についてですが、この両者は密接な関連があると思います。「現実の世界」を「色」と漢訳したこと自体、電脳で色を扱っている一人として脱帽なのです。これだけでも仏教の洞察力のすごさを現在の世界に発信できると思っています。

色相環で見たとき、それぞれ相対する(反対側に位置する)二色同士を、反対色とか補色、余色の関係にあるといいます。この関係は、例えば赤と青緑、黄と青紫、緑と赤紫などです。そしてこれらの色同士を混ぜ合わせると、無彩色(白、灰、黒のような色彩のない色)になるのです。すなわち 無彩色 = A色+ A色の反対色(補色、余色)なのです。この無彩色はまさに未分の状態 = A + 非A とよく似ているように思われます。

今回展示しました画像の左右は、電脳三昧によって生み出した画像とその反対色で表示した画像です。この左右で、その雰囲気は異なりますが、特に大きな落差は感じられないように思うのです。この二つの画像の比較から、下記のことがわかります。
(1)非Aすなわち相対するものでも十分検討する価値があることを認識できます。
(2)A と非A の両者を単に比較して一方を排除するような二者択一はせずに、両者を共に生かし、さらによりよいもの生み出せないかを検討する。これが無分別後の分別ということだろうと思います。

この「金剛経」の「即非の論理」は「般若経」の「空」をわかりやすく説明したものではないかと思われます。

2007.6.11