自利利他(じりりた)の楽しみ(文章)

いままで、いろいろと考察してきましたように、科学の視点から見ても、 仏教思想はきわめて魅力のある存在なのです。

ただし仏教の経典は、 現代人にとってきわめて難解であり、このための学問的な解説をする専門書でも、伝統的な通説に基づいたものや,「難解」を良しとするものが多いのです。 現代人が宗教とか信仰としてではなく、その思想を理解しようとしても、納得に苦しむような解説がきわめて多いのです。現代人が信頼する(よりどころとする)のは、 「思想」のみなのです。

ところで、一般的な仏教の参考書のなかで、 現代の中学校の生徒に実際に講義をしたという、梅原 猛 著「梅原猛の授業 仏教」(朝日新聞社、2002年2月)は、 広範囲な知識を背景として、 現代人にとってきわめてわかりやすく書かれており、 私にとっても大変参考になりました。 現代の立場で仏教を見つめることは、 仏教思想を若い人たちに理解してもらい、これを受け継いでもらうために欠かせないことだと思います。

この本の中で私が特に印象が深かったのは、「イチローは「空」を実践している」という記述や宮沢賢治の作品に触れ、 両者を高く評価していることです。イチローや賢治の魅力は、 自己を抑制して自己を向上させると同時に多くの他者に大きな影響を与えているということです。

これらに関し、以下一部を引用させていただいて、私の感想を記述したいと思います。まず『大乗仏教は山から町へ下りた』の項目でのイチローに関しての梅原先生の記述の一部を以下に断続的に引用させていただきます。

『 いま、日本人で自己抑制がいちばんできているのはイチローだと私は思っています。だからこそ、あんなすばらしいプレーができるんですよ。・・・ ・・・山へ籠(こ)もるような静かな生き方は否定に偏(へん)している。無に偏している。それではだめだ。 一方、快楽におぼれている人間は肯定に偏している。有(う)に偏している。 龍樹は、 どっちもだめだと言うんです。肯定に偏せず、否定にも偏せず、有に偏せず、無に偏せず、自由に生きる。 これを龍樹は空の智恵だと言っています。自由な人間になるということは、大変にむずかしいんです。・・・
・・・イチローのように、どんな球でも打てるというのが空です。・・・空というのは、どんな球が来てもとっさに反応できる知恵です。 とらわれていたら、そういう反応ができない。そういう知恵を大乗仏教では説くわけです。・・・
・・・山のなかに閉じこもって自分たちの悟りを開くのは自利の立場だからだめだ、悩んでいる民衆のなかへ入って人を救え、これが利他の立場です。 大乗仏教はこの利他行を強調します。・・・』

イチローは、 果てしない自己の修行の結果を、大リーグの大舞台での活躍で世界中の観衆に表現しているのです。 これぞまさしく究極の自利利他行ではないでしょうか。イチローの修行に関しては後でさらに記述します。

次に『現代の仏教はどうなっているか』の項目での宮沢賢治の思想について、『世界が幸福にならないうちは、個人の幸福はない』の最後の部分を引用させていただきます。

『 賢治は科学と宗教との一致ということを考えています。これは賢治の哲学の精髄(せいずい)に触れます。この背後には唯識仏教という仏教の考え方がある。ひとつは世界を意識の現れとみる。銀河系の宇宙も一つの意識であり、人間の意識もそのような意識のひとつの現れである。 そのような人間の意識と銀河系の意識とをひとつにさせる。それが賢治の宗教であり科学です。

その思想の根源は、自分と世界とは同じだという仏教の考え方です。世界はぜんぶ自分のなかに入っている。 銀河系がぜんぶ自分のなかに入っている。 自分と世界が同じだ。 これは、 前にお話しした華厳や真言密教の考え方です。・・・
・・・ここで賢治は、 仏教哲学を中心として、 科学を媒介にして、ひとつの見事な世界観をこしらえたわけです。』

私は文学は苦手でその上不勉強なので、 宮沢賢治の思想というか世界観は理解できていなかったのですが、上記の解説を読んで、 華厳思想を童話や詩の世界に発展させた大先輩がいたことを知り、大変うれしかったのです。「華厳経の風景」にとって百万の味方を得たような心地でした。仏教哲学を中心として、科学を媒介にして、私なりの世界観を構築することを最終の目標として、未熟ながらこれからも研さんするつもりです。

イチローのバット

2008年1月22日、NHKのプロフェッショナルという番組で、イチローは、脳科学者 茂木健一郎と活発な会話を楽しんでいました。その話題のなかで、 イチローのバットは、 他の選手のと異なり、細めでスイートスポットの領域は狭く、 扱いがかなり難しいという。イチローは、バットの製作所で 数多くあるバットの中からそのバットにさわった瞬間に「これだ」と直観したそうです。自分のバットとの運命的なめぐり会いをしたと語っています。

現在では、バットを握ったとき、イチローとそのバットは完全に一体化し、バットの先端まで常に彼の神経が行き届いているそうです。 そしてこの感覚を逃さないために、 けっして他の選手のバットにはさわらないと語っています。

たぶん長い年月をかけて、 ひたすらくり返し、くり返しバットを振り、球を打つ練習(修行)を重ねた結果によるものでしょう。

思うに、グローブについてもバットと同様と推測できます。すなわち多年にわたるくり返しくり返しの反復練習によって、バットやグローブは彼の手や目の一部になっているのです。まさに千手(じゅ)千眼(がん)観音の境地なのでしょう。

この結果は大リーグの大舞台での飛び抜けた活躍として現れ、 誰の目にも彼の絶え間なくひたすらくり返す反複修行の結果であることを、 知らしむることができるのです。

大日如来から千手千眼観音菩薩へ

若き日の空海のように、 四国の山々の自然の調和の仕組みを観じたり、あるいは室戸岬などの海辺で天空と海との間の虚空を観じたいして、いわゆる山岳修行をし、太陽系を含む地球上の自然と一体化する境地を体感したのです。これは太陽をシンボルとする大日如来と一体化することなのでしょう。

さらに空海は寺の道場で修行が可能なように、 曼茶羅という宇宙や自然の調和の仕組みをイメージさせるうような図画を導入しました。また立体空間でイメージを可能にするために、東寺に宇宙を表現するような仏像を数多く配置した講堂をつくりました。これは曼茶羅や仏像と一体化する修行を意味します。

仏教の修行の目標は、 「自己の究明」ですが、 その結果として自利利他が達成されなければ意味がありません。仏教の修行によってその人の心は変化し向上していくので、自利は多かれ少なかれ達成されるのですが、 この変化は他者には感知できないことで、直接他者には影響を及ぼしません。

イチローが毎日、毎日、くり返し、くり返し行う果てしない反復練習は、 仏教修行ではありませんが、 その成果は完璧に自利利他を達成しているのです。

道具や機械は、人間の機能を拡張したり向上させるために、 人間によってつくられたものですが、 もしこの道具や機械と一体化できたなら、その効果は十二分に発揮できるのです。

人間と機械(道具)とが一体化するよう修行をしたときは、人間の能力は増大し人間としての向上が得られると同時に、 その成果は機械(道具)の出力(挙動)として外部に現れ、これは他者が感知でき、 その出力(挙動)によって生じるいろいろな成果は全て共有できるのです。

すなわち人間がその機械(道具)の機能を十二分に発揮できるように、 訓練を重ね習熟すると、 自己のみならず多くの他者もその恩恵を直接受けることができ、 自利利他を効果的に実現できるのです。

まさにいろいろな道具が手と一体化し、これによって多くの人間のために貢献する千手(じゅ)千眼(げん)観音菩薩の菩薩行に相当します。大日如来が千手千眼観音菩薩に化身(けしん)することで、 自利利他をより具体的に実現できるのです。

少しおおげさですが、 万能機械とも表現できないこともない電脳と一体化することは、千手千眼観音菩薩と一体化することを意味します。電脳と一体化すると人間の能力を極度に向上でき、 かつこの電脳を帝釈天(インドラ)のネットに相当するインターネットに接続すると、 全世界の他者が恩恵を受けることが可能となるのです。

これぞ究極の自利利他ではないでしょうか。なお蛇足ですが、このホームページの標語は、 「楽しみは、 創(つく)ること、 伝えること」です。

2008.3.10