唯識(ゆいしき)思想と電脳が生み出す画像

唯識思想については、まだ十分に理解していませんが、私をおおいに引きつけるものがあるのです。

それは、新しい何かを生み出そうとしているときに、はじめに物ありきでは具合が悪いのです。はじめに夢ありきに魅力があるのです。あたかも夢の中での経験と同じように、自らのうちに識(脳、心)がつくり出した何らかの映像を、識自身が見て認識するというプロセスを唯識の考え方と理解しています。

1990年全米興行収入第一位の映画は「ト−タル・リコ−ル」でした。原作はP.K.ディックの短編小説「追憶売ります」です。 時は2084年、夢の世界を実体験と同じように記憶に植え付けることのできる ”リコ−ル・マシン”というバ−チャル・リアリティの装置を開発して、火星周遊旅行を企画し募集している旅行会社に ”シュワちゃん”が応募することから、この映画の物語が始まります。このツア−は実際の火星旅行に比べ、きわめて低料金、低リスクで実現できるので、大人気なのです。

バ−チャル・リアリティ(仮想実現感)とは、電脳によってつくられる現実を模した情報により、現実を人間が識でイメージした世界として体験するものです。これはまさに唯識論を具体的に体験することなのでしょうか。

唯識思想では、現実の世界を、識がつくり出した映像を識自身が見て認識するという、仮設の世界として表現していますが、電脳も現実の世界を仮想現実として、自らの電脳空間につくり出すことが可能なのです。ここで禅定(瞑想)のような方法で、現実の世界には存在しないイメージの世界をつくり出すことが可能なように、電脳でも何らかの方法でイメージの世界をつくり出せないかを検討したのが、この「華厳経の風景」なのです。

私の第二の人生のテーマである「新しい趣味の創作」でも、「心」とか「夢」を最も重視したプロセスを導入することを目標にしています。すなわち「電脳の世界をさまよって美しい草花を見つけ出す」ということは「電脳の力をかりて夢(通常の意識では予想のつかない何か)を、まだよくわかっていないカオスによって生み出し、この夢の中をさまよって新しいイメージを発見する」ことなのです。

作品を生み出すプロセスについてもう少し具体的にするために、私の作業と電脳との関連を少し述べます。まず第一の作業は、電脳が与えられた何らかの数式の計算を実行して、その結果を画面に表示させるための基本的なシステムを動作させるプログラムを作ることです。

第二の作業は、電脳が計算処理を行うための種々の条件、たとえば採用する関数やその定義域、定数などを指定します。この段階でも長い経験から適当なものが選ばれるだけで、生み出される画像は全く予想がつかないのです。この理由は数学的に予想がつかないと証明されている、カオスが発生する領域を扱っているからです。

第三の作業は、 第二の作業の延長上で、 電脳から創造性の高い画像を生み出す過程で、いわば電脳三昧の段階です。ここでは第二の作業を試行錯誤で何度も繰り返すのですが、当然多くの場合何も生み出さないのがほとんどです。このため、多くの経験と微妙な操作が必要で、電脳と私とが密接に一体化することによって可能になります。 電脳に与えた諸条件を徐々に変化していくと、何らかの兆候が画面上に現れ、この映像を観察しながら感性のおもむくままに微小な変化を電脳に反映させることを繰り返すことで、電脳から未知の画像を導き出すのです。人間と電脳との相互伝達をより柔軟にするためマン・マシン・インターフェースの試作がなされています。

この作業は、修道論でいう加行位の段階の止観(しかん)を繰り返すことに似ています。心のはたらきを静める「止心」と静まった心に対象の映像を映し出す「観察」を意味する「止観」を繰り返すことで、あたかも澄みわたった水面に、心の安まる風景が徐々に明瞭に映し出される三昧の世界です。

以上を唯識思想に当てはめると、電脳と私とが一体化したと考えれば、識の中の対象面(相分(そうぶん))は電脳が主に担当し、主観面(見分(けんぶん))は私が担当していることになるのでしょうか。

ここで電脳がつくり出す映像は、人間の意識では全く予測できない数学的カオスから生み出されるものですので、上記のように人間と電脳とのやりとりによって生まれた画像は、 従来の人間によって生み出された作品に比べて、きわめて異質で創造性の高いものなのです。

さらに電脳と人間とが一体化することによって、人間特有の自分に執着する心の働き(これを末那識(まなしき)という)の影響を遠ざけるような仕組みになっているのです。

以上のようにこれらの画像は、華厳経の思想に基づいた因果関係から生み出された花園で、あえて言えば、私(寅年)の守り本尊である虚空蔵菩薩(電脳を意味する)のお導きによるものです。

(追記)

相即・相入(そうそく・そうにゅう)と天心の芸術論

岡倉天心の「茶の本」(立木智子訳、(株)淡交社、平成6年10月)の第5章 「芸術の鑑賞」で、 天心は芸術の創作や鑑賞において、 作家とその作品とそれを観る人との精神的なコミュニケーション、つまり心が通い合うことが最重要であるとしています。そのためにはそれぞれが謙虚にして互いを敬う態度つまり互いに譲歩する態度であるとしています。

このことに関し、 次のような「琴馴らし」の話をたとえにして説明しています。昔、中国の皇帝が秘蔵する竜門の琴を、唯一弾き馴らすことができた名手伯牙(はくが)にその秘訣を聞くと、「他の演奏家たちがうまく琴を弾けないのは、己のみを歌おうと(自己を主張しようと)したからです。 私は琴に身を任せ、琴に何を演奏するかを選んでもらいました。 そうするうちに、 琴が自分自身であったのか、 自分が琴であったのかわからなくなったのです」 と答えたとのことです。

「華厳経の風景」を電脳から引き出すために、電脳をコントロールしているのではないのです。私にとつて電脳は琴そのものなのです。「電脳の世界をさまよう」ということは電脳に自らを任せ、電脳が描くカオスの幻影を素直に観じ、それを引き出すことのみに専念しているのです。

(追記-2)

唯識思想と電脳が生み出す画像との対応についての具体的で詳細な説明は、いずれ近い将来に行いたいと思っています。