「すべては自己の究明にあり」

風輪/すべては自己の究明にあり

風輪、蓮華蔵世界を支える風の渦、渦は花びらを形成する根源でもあり、一方見方を変えれば、宇宙から自己への収束、あるいは自己から宇宙への発散を意味します。 ということは、・・・、花の構造は自己を含む宇宙を表しているのです(?)。


文献(1)の最終章、 「華厳思想の目指すもの (いま華厳思想を考える)」の中の自己に関する記述について、断片的に引用させて頂いたのが以下の文です。

「 信満成仏(しんまんじょうぶつ)の思想は、華厳の大海、毘廬舎那仏の大悲の大海原の中での己事究明の姿を語るものであり、これこそもっとも重要な教えであると思うのです。・・・

私たちは縁起という思想に、つい自己を世界の外に置いて、その自己の眼前に広がる世界のありようが、関係性の中にあるように了解しています。

しかし、・・・華厳の縁起は、対象的世界のこととして受け止められるべきものでなく、自分もその中にある世界全体のこととして考えられるものでなければなりません。

それは、自己から世界を見る見方をひるがえして、世界から自己を見る見方をとるということです。 自己は世界の無限の関係性の中で成立している自己であるとの洞察が、そこに開かれます。 自己の一毛孔(もうく)に、世界のすべてが宿っているのです。 世界のすべてに、自己は関与しているのです。 この自覚が開かれたとき、おのずから関係する他者へ配慮せずにはいられない生き方が促(うなが)されてくることでしょう。 慈悲心と一体となった菩提心というものが、おのずから発せられてくることでしょう。・・・

(さらに、重重無尽縁起における自己についての貴重な記述があるのですが、ここでは引用を省略します)」

以上、もうみなさまはお気付きと思いますが、華厳における自己と全体の世界との関係は、フラクタル幾何学における自己相似集合の概念とよく似ています。

芸術作品における自己は、その作品の基本要素となる 「主題」とか「モチーフ」に対応すると思われます。 「華厳経の風景」の場合は、フラクタル (この場合単純な幾何学的自己相似集合ではなく、拡張されたより複雑なタイプ) の画像を生み出すための道すじ、即ち画像の基本要素となる関数(漸化式)やその定義域を探索することなのです。 しかしこの基本要素からは数多くの反復計算の結果として生み出される全体的な画像を予測することは不可能なのです。 即ち「因分可説、果分不可説(いんぶんかせつ、かぶんふかせつ)」なのです。 これは「止観行」を繰り返すことによつて、智慧を生み出す過程とよく似ていると思われます。 電脳から無分別智を引き出すには、かなりの修行を必要とし、これを複雑系の用語では「創発(そうはつ)」と呼んでいます。


最後に、華厳思想がすばらしいのは、この概念をさらに高めて、自己と他者との平等性を説き、慈悲の根源となる「平等性智」や、事事無礙法界のような自己と他者とがそれぞれ自由な主体性を確立し、かつ互いに相即・相入しあう円満な世界を映し出す「大円鏡智」を導き出していることです。