心は巧みな画工のようなもの

心は巧みな画工のようなもの

心は人間の苦の根源となる煩悩を生み出したり、 仏の根源となる菩提心を起こさせたり、大変興味深い存在です。

「華厳経の風景」のホームページを立ち上げてから一年三ヵ月が経過しました。初めの「蓮華蔵世界」から「仏陀の象徴」までの十五編、 曲がりなりにも一段落つきました。この中で、「心」についての考察がずるずると後まわしになってしまいました。この間、私の心の中に常につきまとっていたものは、素朴で基本的な疑問 「仏教や人間の心について扱っているのに、なぜ電脳なの?」に対する明解な答えでした。まだ不完全ですが、一応今の私の考えを述べさせていただきます。

一般的に「電脳に、人間の心など扱える訳がない」とよく言われています。しかし私はそうは思っていないのです。

「心」と「電脳」との共通のキーワードの第一は、「自然」あるいは「自然の法則」であろうと思います。地球上に人間が登場して以来、長い期間をかけて人間の心は「自然」によって育まれたものと思われます。もちろん心には煩悩が存在し、その影響も受けるはずですが、多くの「善男善女」の心には「自然」あるいは「自然の法則」が深く根ざしているものと思われます。

「電脳」は、自然の法則を忠実に実行し、自然現象を再現(シミュレーション)してくれる可能性をもつ仮想空間を内蔵しています。私はあえて電脳のことを現代の虚空蔵菩薩と呼んでいます。

共通のキーワードの第二は、「サイバネテックス」という概念です。これは1947年に数学者ノバート・ウィーナーの提唱に始まる学問分野で、 機械と人間、 科学と哲学・社会学などを情報とその制御の概念から橋渡しし、統一的に取り扱う総合科学なのです。これについての詳細な考察もまだ十分でなく、いずれまたの機会に記述したいと思います。

以上個々の人間の心は難しいとしても、全体として平均的に扱うのであれば、電脳でも扱える可能性があるのではと思っています。

さて、「夜摩天宮菩薩説偈品(やまてんぐうぼさつせつげほん)」の如来林菩薩の偈の記述と、電脳から何かを引き出すことに専念している私の作業を対比すると下図のようになります。


「心象(イメージ)」に対する「電脳」のささやかな挑戦
図 「心象(イメージ)」に対する「電脳」のささやかな挑戦


如来林菩薩の偈において、あらゆる世界を心が描くということは、いわゆるイメージの世界であって、幻のごとき現象であり執着すべきでないと説いています。一方電脳が描く画像も、数学的カオスが生み出す幻影にすぎないのです。

このようなイメージの世界で、特に私が執着しているのは、前半で述べましたように電脳が生み出した幻影を「心」がどう感応するかということなのです。すなわち私の作業は、「心」の中でも最も自然の影響を受けていると思われる「感受性」が、「自然科学から生まれる花園」 にどの程度共感しうるかを調べるための一つの実験なのです。

この実験の過程で明らかになったことは、今まで展示された画像とその考察の通り、電脳による数学上の処理の概念やその方法自体が華厳思想と類似していたこと、またその結果として描かれた画像が蓮華蔵荘厳世界の記述とよく合致していることなど、この実験自体およびその結果を含めて華厳思想に驚くほど似ている点がいろいろな視点から数多く発見できたのです。

なお電脳は今後ともどんどん画像を生み出しますので、この報告も永遠に継続され、補充や拡張がなされます。

(追記)

今回の項目が、最初の「蓮華蔵世界」から最後の「仏陀の象徴」までの十五編の最終の記述になりました。電脳による数学的カオスが生み出す幻影の花は、今回の展示画像からも明らかな如く、自己相似集合という特徴があるのです。

宇宙の太陽系、これはまさに華厳経の風景です。太陽(毘廬舎那仏)の大輪の花を中心に、その回りを地球を含め多くの惑星(菩薩)の花がとり囲み、蓮華蔵世界を思い浮かばせます。さらに地球を回る月のように各惑星の周囲を運行する小さな花の存在も確認できます。

そしてそれぞれの花の構造は全て相似形で、どんなに小さな花でもそれを拡大すると画像全体と同じになるのです。すなわち「それぞれの中に全てがあり、全ての中にそれぞれがある」の「一即多・多即一」の世界でもあり、またそれぞれの花は相互に調和を保ち無礙(むげ)の配置にあり、分割しても同一で平等であり、無分別の世界でもあるのです。

次回からは(順番的には「仏陀の象徴」の後)「華厳経の風景」エピソードとして、広く多面的な考察を試みるつもりです。