このHPで考察の対象にしているのは、前回考察しているように、芸術に関する、「意味不明」でも心に感じる(心地よい)事物です。具体的には、柳のいう手工芸的手法、すなわちその製作工程で一種のカオスの状態を生み出すことによる「混沌」の美や「混沌と秩序の狭間」の美であって、これは井筒のいう表層意識までは上がれないで深層意識に潜在している美でもあるのです。すなわち人間の記憶の断片として薫習されれている無数の「種子」の局所的相互作用によって生まれる美なのです。
そして今までにいろいろの視点から考察してきたように、この美は、人間を生み育んできた自然の美であり、根源的には「決定論的カオス」の美なのです。
今回は、井筒俊彦や柳 宗悦の思想を、現代に生かすには、結局のところ電脳を効果的に生かす以外に方法がないという考察です。
昨年の東日本大震災は、自然が人間や機械にその威力の一端を発揮し大きな損害を与えた災害であると同時に、機械が人間や自然に放射能汚染というしっぺい返しをしたきわめて象徴的な災害でもあったのです。要は、このしっぺい返しの事故は「人災」なのであって、人間の知恵が足りなかったのです。
自然は人間を生み出し、人間は機械を生み出したので、自然 > 人間 > 機械 という階層構造にあるのですが、下克上も当然あり得るのです。
普通、自然を人間が破壊するということはよく認識されていることなのですが、人間を機械が破滅させるということは、機械の利便性に隠されて、あまり話題にのぼらないのです。
人間が機械から受ける被害には、大事故、あるいは戦争のような大きな事件が頭に浮かぶのですが、実はそういうことではなく、我々の日常生活の中に病根のように潜んでいて、これが人間の怠慢によって日々拡大していることに気づかないといけないのです。
かつて庶民が生活の糧や生きがいにしていた、簡単な道具を用い手作業により生産する手工芸では、物づくりの製作工程に、「混沌」と「秩序」の調和、すなわち「不規則中の規則」の美を生み出すプロセスが潜在していたのです。
ところが、柳 宗悦の時代からおおよそ80年あまり経過した現代においては、これらはすべて精密な自動機械に代行されてしまったのです。庶民の生活も一変し、電脳を中心とした情報化社会にあり、多くの庶民は、ほんの一握りの人間の作ったソフトウェアによって特徴づけられた(電脳にあやつられた)紋切り型の日常生活を送っている状況にあるのです。
人間の生活の糧や生きがいとしてのきわめて多くの人の仕事を、電脳を内蔵した機械に奪われている現状を、人間はただ漠然と見ているだけでよいのでしょうか。これが現代の閉塞感の原因なのでしょう。
ゲームの世界でも、電脳は1997年にチェスの世界チャンピオンのガルリ・カスパロフを破ったのをはじめ、今年1月に将棋の米長邦雄永世棋聖を破っています。囲碁についても時間の問題なのでしょう。これも当然の帰結なのですが、明解なルールに基づいて運用がなされるような仕組みでは、現在の電脳は全ての可能性を「しらみつぶし」にチェックしてしまうだけの能力を発揮できるので、人間よりも有利なのです。
ちなみに、チェスを指す機械に、最も早くから興味を示したのは、ノバート(ノーバート)・ウィナー(1894〜1964) なのです。ウィナーの思想に関しては、「仏教思想と自己相似集合」の「サイバネティックス」以降一連のシリーズとして詳細に考察しています。
ウィナーは、将来起こるであろうサイバネティックス機械による重要な二つの問題を予測しています。その一つは、失業の増大に導くのかあるいは反対に労働力の需要の増大に導くのかという問題です。もう一つは、大衆操作の可能性に関する問題です。
このウィナーの予測は、現代においてきわめて重大な問題なのですが、ただしこれらすべてはウィナーの思想に帰着することなのです。すなわち機械はあくまでも人間が人間らしい生活をするためのものであるとして、この観点から人間と機械の調和のための学問体系を確立したのです。すべては人間の知恵次第なのです。その意味で、現代ほど教育が必要な時代はないのです。
機械の急速な進化に惑わされることなく、自然と機械とを上手に生かして人間らしい生活を送れるような、現代に即した教育が当然あるべきなのです。
現代、よく中高年が口にする「ITは苦手でね」と平然としている場合ではないのです。人間が生み出した機械に負けないためには、進化した機械より常に人間が上位にいることが必須なのです。これが人間が機械を生み出した以上、当然の帰結であり、現代の人間の宿命なのです。
このHP全般を通して、「自然と人間との一体化」の思想を話題にすると同時に「人間と機械の一体化」をかなり強調して訴えてきました。このためにはすべての人間が、たゆまず知恵を身につける必要があるのです。そしてこれが自然と機械とを上手に生かし、人間らしい生活を送る方法であり、またウイナーの思想の核心でもあるのです。
井筒のいう無「本質」的分節とは、その「本質」がいまだ定義されていない新たな事物を創造することで、すなわち表層意識ではいまだ「意味不明」な状態にあるものの、深層意識に感応しそれを目覚めさせるような事物を新たに生み出すことです。深層意識を活性にするためには、老子のいう「無(無名)」や荘子のいう「渾沌」の境地に達する必要があり、無「本質」的分節はこのような「無」の状態を基盤としてなされるのです。これを電脳によって試みることに関しては「華厳経の風景」以来のテーマなのですが、具体的には、エピソード編の「15. 決定論的カオスによる覚醒」で考察しています。
ここでは井筒俊彦の思想としての深層意識を積極的に活用するという観点から、電脳の利点を考察しています。
全くの未知の状態では、何の拠(よりどころ)もないのですから、最初は当てずっぽうの状態で、「偶然」を頼って分節することになるのです。
電脳を用いるということは、数学という言語による分節を意味するのですが、ここで無「本質」を意味すると考えられる数学的カオスの発生する状態を、試行錯誤で分節することを試みます。このような機会を増すための反復繰り返しは電脳の機能として最も得意とするところです。
井筒の言葉を借りると、深層意識の闇の中に浮遊している「意味可能体」としてのイメージは、現れては消え、消えては現れ、結び合い、またはほぐれつつ、瞬間ごとに形姿を変えているのです。これを即座に現実の世界で何らかの形象として再現することは、天才でないと無理なのでしょう。
電脳によって生み出される「偶然」において、何が起こったかの状態は一切記憶させることが可能です。人間は後から時間をかけてその状態の一片一片を精査することが可能であり、プロのカメラマンが連写によって決定的瞬間を捉える手法と同じように、深層意識を目覚めさせるような形象を獲得することが出来るのです。
「偶然」との遭遇の状態を記憶できるということは、それを「必然」に変えることができるということであり、人間の直観や思考が関与しやすくなるのです。
前回考察した一次元セル・オートマトンの実験からもわかるように、表層意識を超越するような複雑微妙なパターンを生み出すには、表層意識では「意味不明」な常識では考えられないルールを用いることなのです。これは当然といえば当然のことなのでしょう。これが井筒のいう「深層意識の領域を開拓する」ということであろうと思っています。
もちろん、突飛なルールを用いたら、突飛な結果が生まれることを見越した上のことで(多くの試行錯誤の繰り返しを覚悟の上で)、人間がその結果をディスプレイ上で丹念に看視して、深層意識に感応したイメージのみを採用すればよいのです。
無「本質」的分節の試行における反復繰り返しの多い作業は電脳によって実行し、電脳に指示(行為)することやその結果の採否は人間の直観が実行するのです。これが人間が電脳を介して(一体化して)、「行為的直観」を駆使することによる無「本質」的分節の手法なのです。
前回でもジャクソン・ポロックの作品について、華厳経の「夜摩天宮菩薩説偈品(やまてんぐうぼさつせつげほん)」の偈を引用して説明していますが、実は「涅槃寂静の世界」の「まえがき」でもこの偈を取り上げています。そこではこの偈の現代的解釈として、西田幾多郎の「行為的直観」の思想に関し、芸術的創作作用の観点を記した文章を引用して、対応させています。
ここでは、『巧みな画工が、自分のこころを知ることが出来ずにいて、しかも心に由(よ)って画くようなもので、万有の性もまたこれと同様である。』を井筒の思想と対応させて解釈すると、表層意識では「意味不明」な状態であっても、実際の画面上で西田のいう「行為的直観」を一歩一歩繰り返し実践することで、徐々に深層意識を目覚めさせるような作品を顕現でき、これは芸術作品に限らず万有の性も同様のことなのであるということなのでしょう。
なお、表層意識で「意味不明」なルールとは、西田幾多郎の言葉を借りるなら、矛盾が存在するルールということであって、「絶対矛盾的自己同一」のルールだからこそ創造性が芽ばえ発展することができるのです。これを科学の言葉で言うと「非線形性」の驚異といいます。
最近この手法で生み出した画像を下図に展示しておきます。図1、図2とも現実には存在しない、表層意識では「意味不明」な画像なのですが、私の深層意識には「混沌と秩序の狭間」の美として強く感応したものです。