前回とりあげた「カオス」についての広辞苑(第五版)の二つの語義@、Aについてさらに考察を加えたいと思います。
鈴木大拙全集をぱらぱらと適当に転読していたら、第十四巻に大変興味のある記述に遭遇し、さらにその周辺を拾い読みしていたらもう一件見つけました。その一つは、第十四巻((株)岩波書店、2000年11月)に添付している月報14に載っている石井修道 著「禅思想に想う」です。その中に「鈴木大拙が鎌倉東慶寺での「混沌」についての講演で、黒板に円相と「Chaos」とを描かれた」という記事です。
このChaos は混沌の英語訳であって、西洋の神話に基づく天地創造以前の無秩序の状態を意味するものと思われます。また円相とChaos との関連を大胆に予想するならば、 禅で円相は悟りの境地や宇宙を表すといわれています。 悟りの境地は、その一側面である未分化(無分別)の状態を意味するものと思われ、また宇宙と解すれば、宇宙創成以前の状態を意味するものと思われます。
悟りの境地では、いつまでも未分の状態にとどまるものではなくて、新たな創造が生まれ出るいわゆる「無分別後の分別」が達成されねばなりません。 また宇宙創成以前の無秩序の状態も、そこから当然秩序をもった宇宙創成がはじまる訳です。
「カオス」についての広辞苑(第五版)の A の意味を再度引用しますと、「初期条件によって以後の運動が一意的に定まる系においても、初期条件のわずかな差が長時間後に大きな違いを生じ、実際上結果が予測できない現象」とあります。これは「 重重無尽の行き着く世界」で考察したように「決定論的カオス」そのものです。
最も簡単な例として漸化式のように、初期の状態(条件)が決まれば、その後の状態が必然的に決定されてしまうことを、「決定論に従う」といいます。まさにこの決定論に従う世界は、我々の日常の意識すなわち分別理性の通用する世界なのです。このような世界においても、 因果関係が比例関係ではない非線形の場合には、初期条件のわずかな差が時間の経過とともに急増し、不規則でかつ不安定な状態が生じ、実際上結果が予測できない現象が起こる可能性があるのです。これを「決定論的カオス」というのですが、この状態は分別理性が通用しない世界で、無秩序の状態とも解釈できます。
しかしながら、この状態を新たな視点での分別作用で構築(表現)し直すと、「華厳経の風景」のような美しい秩序のある画像が生み出されるのです。
以上のように「カオス」の語義 @は神話に基づくもの、Aは現代の数学に基づくものですが、 いずれの場合も潜在的に「秩序」を生み出す能力のある「無秩序」の状態をいうようです。
興味ある記述のもう一つは、同じ第十四巻の「禅とは何ぞや」の 一、宗教経験としての禅の第4講の鈴木大拙の記述です。それはまさに非線形性の強い漸化式によく対応すると思われる十二因縁と、釈迦の悟りについての記述です。 以下その要点を断続的に引用させていただきます。
「・・・その十二因縁を順逆に観ずるということと、暁の明星を見て悟るということの間に、何等の関係があるのであろうか。 これはよく考えてみるべきである。 普通には十二因縁を観じて悟ったということにして、その間の関係というものは、明らかでないように思われるのである。・・・四諦・十二因縁というが、数は何でも構わない。 とにかく、因果の連鎖というものがあって、その連鎖の一つ一つに関係がついている。そして行きつ戻りつやっていて、その内から外に出ない。・・・知というのは、何かここに一つの物が出て、そしてそれから次へ次へと因果の理法を践(ふ)んで行く時には、どうしてもそれに引きずられて行くものである。 そうしてそれよりほかに行く路を持たない。・・・
・・・それにはこの十二因縁の圏外に脱して見なければ分からぬものである。・・・けれども圏の外に出るということだけではいけない。 外に出ると同時に内に入っていないと分からぬ。 十二因縁というものを超越しないと、十二因縁は分らぬが、また同時に十二因縁の中に入らないと十二因縁は分からぬということになっている。」
鈴木大拙は、単に十二因縁の流れに従って次から次へと因果の連鎖を歩んでも、それはいわゆる決定論に従う結果しか得られず、これは悟りではない。 因果の連鎖の反復の概念の圏外に脱して、あるいは超越して多面的に見なければ十二因縁は分からず悟ったとはいえないことを力説しているように思われます。
十二因縁はまず初期条件があって、そこから仏教的な因果関係に基づいて因果の連鎖で結論を導くもので、漸化式の手法とよく似ているのです。さらにこの因果関係は線形ではなく、かなり強い非線形です。少し我田引水になるかもしれませんが、 漸化式における決定論に従う結果の圏外にあり、超越して予測不可能な状態となる決定論的カオスが発生して、それを十分に観察できた時点が、 悟りのはじまりではないかと私は解釈しています。
「華厳経の風景」を生み出す手法としての「電脳三昧」については、今までに何度か触れてきましたが、この機会にまとめておきましょう。 下図は「電脳三昧」、具体的には、決定論的カオスによって覚醒を得ようという仕組み(システム)です。
非線形の漸化式から発生する決定論的カオスは、 無秩序の状態ですので、このままでは何も生み出しません。 そこで何らかの分別によって、新たな秩序を創造したいのですが、この決定論的カオスの挙動はまだ科学的に十分に解明されておらず、 理性は通用しない領域なのです。すなわち普通、分別は理性で行われるとされていますが、よくわからないものは理性では分別できず、直観で試行錯誤を繰り返し、新たな分別方法を獲得しなければならないのです。
分別の最も簡単な方法は、篩(ふるい)によって区分けすることですが、電脳では通常フィルター(濾過装置)と呼ばれるソフトウェアでイメージを処理(分別)します。 このソフトの処理条件を新たに見つけ出さなければならないのです。 電脳が表示する何らかのイメージ画像を、あるがままに見ながら直観で、決定論的カオスを発生させる非線形の条件や分別のためのフィルターの処理条件を見つけ出すのです。そしてこの二つの条件が、 最終的なイメージ画像として何が創造されるのかを決めるのです。