自己相似集合であることの証明

無限に織りなす関係の中で、事事無礙法界や六相円融義のように、互いに礙(さまた)げ合うことなく、融け合っている状況をイメージするのは容易ではありません。これを具体的に目で理解できる構造として、自己相似集合の図形は、最適なものでありました。だからといって、華厳の世界が自己相似集合の世界だということにはなりません。これだけでは状況証拠の域を脱していないのです。そこで華厳思想の中にもう少し決定的な記述がないかを調べました。

この結果自己相似集合であることの証明として、とりあえず次の二点が見つかりました。この説明のために、前回展示した一つの円の中に九個の円を相即・相入した自己相似集合の画像(9)を用います。これは一つの大きな円の中に九個の円が入り、この九個の円の一つ一つに九個の円が入り、さらにこの一つ一つに九個の円が入るという、厳密には無限の繰り返し(n=∞)の構造なのです。

(1)一即多・多即一の関係に一致すること。
展示画像(9)から、同体における体の関係、すなわち一即多・多即一の構造を確認することができます。「それぞれの円の中に全体(展示画像)があり(一即多)、全体(展示画像)の中にそれぞれの円がある(多即一)」なのです。

(2)「入法界品」で善財童子が見た大楼閣の中の全ての楼閣に、弥勒(みろく)菩薩と自分自身が居ること。
これについては、森本公誠 編 「善財童子求道の旅」(朝日新聞社、1998年10月)の五十三 弥勒菩薩(二)の文章の一部を引用させていただきます。
「・・・すると、無数の楼閣のなかのすべてに自分自身がいるのが見えた。弥勒菩薩の威神力(いじんりき)によるものであった。・・・それぞれの楼閣にはそれぞれに変化した弥勒菩薩が様々な方便をもって衆生に法を説き、苦しみを鎮めておられた。・・・善財童子は弥勒菩薩のそのすべての場面にみずからの姿を見出し、その足下にいるのに気づいた。・・・」とあります。

この記述から、少なくとも弥勒菩薩と善財童子は全ての楼閣の中に居ることになります。この二人を生成素の構成要素と考えれば、九個の円から成る生成素の多分中央の円は弥勒菩薩、その足下にいる善財童子は右下か左下の円になるのでしょうか。

展示画像(9)で、外側の一番大きい円を大楼閣、その内部の全ての円を楼閣とすれば、これらの円の中に生成素に相当する九個の円も入っています。

ここで円を、生成素の構成要素すなわち弥勒菩薩や善財童子らと表現したり、あるいは楼閣として扱ったりして、奇異に感じられるかもしれませんが、これらは一体化されたものであり、同じ(同体)と考えてよいのです。仏教の世界では自他やその環境をも同化してしまうのです。

この大楼閣での状況は、弥勒菩薩の威神力により顕現したものであります。
ここで弥勒菩薩の威神力とはまさに自己相似集合を構築する働き、すなわち各楼閣に弥勒菩薩や善財童子らによって構成される生成素を相即・相入し、一体化することを繰り返す働きそのものなのです。

自分が、全ての楼閣に居る自分自身や弥勒菩薩との関わりを見ることができるのは、まさに夢の世界(イメージの世界)であり、唯識思想の識そのもののように思えます。

2007.3.5
(追記)

今回で、「華厳経の風景」のホームページを立ち上げてからちょうど2年になりました。この間、特に初年度は電脳がどのような画像を生み出すのか、全く予想がつかず、従って全体の構成はおろか、個々の華厳思想との対応なども、あらかじめ計画や準備など不可能なことで、常にぶっつけ本番で掲載してきました。

このため、私の勘違いの内容の文章や表現の不十分さが多々あると思います。どうかみなさまの忌憚のないご意見をお待ちしています。そしてこれを機に、なかなかはかどらない華厳思想や仏教の勉強に励みつつ、再度の見直しを行うことを考えています。