11.「空」からの「創造」でのこの題目は、記述した通り、鈴木大拙の著書から抽出した言葉ですが、この意味を十分に解明し、これを現実の世界、すなわち「色」に生かすことに、真剣に取り組むのは、重要なことと思っています。今回はこれに関連して更に考察を進めます。
分別は「ふんべつ」で広辞苑(第五版)を引くと「(もと仏語から)心が外界を思いはかること。理性で物事の善悪・道理を区別してわきまえること。」とあります。一方「ぶんべつ」で引くと「種類によってわけること。区別をつけること。」とあります。
これに関して、鈴木大拙 著「般若経の哲学と宗教」(「鈴木大拙全集、第五巻」(株)岩波書店 2000年5月)の第二の五「意義深きいくつかの対立」の「般若と分別」の一部を引用させていただきます。
「・・・分別は般若智があって始めてその働きをあらはし得るものであるにも拘らず、なんら般若智を顧(かえり)みないのである。この様に一方的なのが分別の特徴である。それ故に、分別は般若智と対立する、執著をひき起し、悪影響を意識の全領域に及ぼす。分別だけでは何の害もないのであるが、分別が執著と結合するとー然もこの結合があらゆる意識に於て必然的であるとー非常な害をなすことになる。・・・」
般若智と対立するのは「執著(しゅうじゃく)」であって、分別作用自体は問題なく、それにともなう執著や不平等が問題なのです。般若智を前提とした分別は重要であると思います。すなわち分別しないと何も生まれないのです。分別したものを「適材適所」に生かすことこそが、最良の方法で、創造を生むのです。般若はあくまでも出発点でしかありえず、重要なのはその後の分別なのだろうと思っています。般若(空)のみを究めるのではなく同時に分別(理性)をも究めなければ意味がないのです。これが本当の意味での般若(無分別)智だろうと思います。
「華厳経の風景」の中でも「カオス」という言葉をよく用いてきましたが、ここであらためてこの意味を考察しておきます。
「カオス」を広辞苑(第五版)で引くと、
@天地創造以前の世界の状態。混沌(こんとん)。
A[理]初期条件によって以後の運動が一意に定まる系においても、初期条件のわずかな差が長時間後に大きな違いを生じ、実際上結果が予測できない現象。流体の運動や生態系の変動などに見られる。
「華厳経の風景」で扱ってきたカオスはAの意味で、ここから何かの創造が生みだせないかと、みなさま御存知の「花のようなイメージ」を生み出す修行をしてきたのです。
カオスの@の意味とそして宇宙誕生からの壮大な歴史については、科学雑誌「Newton」の「地球創造の150億年」((株)ニュートンプレス、1998年3月号(創刊200号記念))はおおいに参考になります。これを少し引用させていただきますと、PART1の「”無”から誕生した宇宙の壮大なドラマ」では、「今から150億年前、”無”のゆらぎから10-34cmの超ミクロ宇宙が突然誕生した。現在に至るまでのこの壮大な物語は、すべてこの超ミクロ宇宙からはじまった。・・・」という書き出しで始まっています。
ここでの注目は「無」と「ゆらぎ」でしょう。勿論この記述は科学的見地からの「無」であり「ゆらぎ」なのでありますが、仏教思想にとっても大変意味深い記述であると思われます。
ただし、この「無のゆらぎ」を科学的かつ具体的に説明せよと言われても、私には無理です。物質の存在しない物理学的な真空では、素粒子が生成消滅を繰り返し、量子論的にゆらいでおり、この「ゆらぎ」が宇宙創成の最初の第一歩ということです。
「ゆらぎ(揺らぎ)」の一般的意味は、「心のゆらぎ」などから「迷い」が連想され、どちらを選択するか迷う状態をいい、学術的には統計的平均からのずれや変動をいいます。いずれにしても「ゆらぎ」は「何らかの選択や差別が引き起こされるきっかけ」になる作用があると考えられます。すなわち「ゆらぎ」は「分別(差別)」の初期段階なのです。
ここで、11.「空」からの「創造」で引用した鈴木大拙の文章の一部を再度記しますと「般若の場は、自分自身を無限に差別し分化することを要すると同時に、どこまでも未分化・無差別のままの情態にいようとするものだ。・・・これがそれ自身差別の面に変じた時は創造である。この差別の作用は何か外から加えられたものでなしに、自ら産み出した自己発生である。これが創造なのだ。これを無からの創造というのだ。・・・」
上記の表現はきわめて注目に値いすると思われると同時に鈴木大拙の洞察力(事の本質を見抜く力)のすごさにおどろかされます。