16. 「無作為・平等 /「機械的」という概念」で、仏教思想と電脳の根源的な関係について考察を試みましたが、今回も引き続きこの関係を考察します。
虚空蔵菩薩とは広辞苑(第五版)によると、「虚空のように広大無辺の福徳・智慧を蔵して、衆生の諸願を成就させるという菩薩」とあります。無量に内蔵(記憶)されている情報を自在に操作し、 人間のいろいろな願いを成就させてくれる働きは、現在では電脳しか考えられません。
情報の宝庫といわれるインターネットという網、すなわちWWW(World Wide Web, 世界中に広く張りめぐらされているクモの巣)から電脳を介して情報を自在に得ることができます。いま私が知りたいと思っている情報は、空海が修行したと言われる「虚空蔵求聞持法」とは何かと言うことです。 そこでこれをキーワードとしてグーグルで検索してみますと、なんと6,460件もの情報がありました。もちろんこれらの情報は、玉石混淆(こんこう)ですが、 私の願いを成就するには余り有ります。 まさに虚空蔵菩薩の御利益なのです。
この検索で私にとって大変すばらしい情報を得ることができたのです。それは、四国第六番安楽寺住職 畠田秀峰氏のホームページで、 その中の掲載文 「弘法大師の信仰の原点である「虚空蔵求聞持の法」と日本仏教(連載1〜3)」です。
ここで私が特に興味を持ったのは、次の二点です。
(1)虚空蔵求聞持法を実行するためには、「三教指帰」に記されているように、真言をくり返し、くり返し百万遍唱える必要があります。ここで真言宗の数珠(真言宗八房本蓮数珠)は、 真言を唱えた数を数えるための道具(そろばん)であることの詳細な解説です。
(2)なぜ、あまり意味のない短い言葉を、くる日もくる日も、くり返しくり返し唱えなければならないかということの詳細な考察です。
これらの詳細は、上記のホームページを直接見て下さい。この掲載文の内容は、 大変参考になり、 勉強になったのです。以後上記(1)、(2)についての私の感想を記したいと思います。
秀峰氏の記述のように真言宗八房本蓮数珠は、 真言を唱える毎に数珠玉を一個ずつ指で繰(く)らせていき、一周すると百八唱えたことになり、これを忘れないように、数珠の房に付いている小さい玉を一つずらすとのことです。
すなわち数珠の輪の部分の玉は、指で一つづつ繰ることで数を数える機能があり、 房の部分の玉は、上あるいは下に移動させることによって、数えた数を記憶する機能があるのです。すなわち真言宗八房本蓮数珠は、数を数える機能と百回毎にその数を記憶する機能により、一万回数えることのできる計数器だったのです。
ここで話を電脳に移しますと、電脳はご存知のように、0と1のみの「二進法」で動作します。 これはまさに数珠玉を、ある方向に移動した(ずらした)とき(1)とそして元の位置に戻したとき(0)に相当します。
なお0という数字は仏教の発祥地であるインドで5世紀から8世紀の間に発見されたといわれています。この根拠は「空」とか「無」の思想からという説もあります。この「1」と「0」は、電気信号ならば「ON」と「OFF」、仏教思想ならば「有」と「無自性・空」となるのでしょう。
次に電脳の動作の基本原理ですが、 実は真言宗八房本蓮数珠の機能と本質的に大差はないのです。少しだけ専門的になりますが、電脳の内部は、演算部とよばれる論理回路を中心として構成される中央処理装置(CPU)とメモリーとよばれる記憶装置に大別されます。
ここで演算部というのは、いわゆる四則演算を行うところなのですが、 正確には足し算と引き算だけなのです。 これを数珠の玉を繰る操作で説明しますと、足し算をするには、数珠の出発点から順方向にその数だけ玉を繰ればよく、また引き算では、逆方向にその数だけ玉を繰ればよいのです。
それでは掛け算3×5は、3をくり返しくり返し5回足せばよいのです。 割り算 15÷3は、まず数珠の出発点(0)から順方向に15個の玉を繰らした後(+15を実行した後)、3の引き算をくり返しくり返し実行して、出発点(0)に戻るまで何回くり返したかを記録すればよいのです。
以上のように、電脳は足し算と引き算を無数にくり返すことによって、数学上の複雑な式の計算を全て成就するのです。すなわち電脳の基本機能は、数を数えることのくり返しを重ねることと、 途中で忘れないようにその経過を記憶装置に記録するだけなのです。まさに真言宗八房数珠の数を数える機能とそれを記憶する機能とからなる構成と本質的に大差はないのです。
ちなみに、電脳すなわちコンピュータに関連したComputationの語源は「数える」ということのようです。
それでは数珠と電脳との違いは何なのか、ということになりますが、電脳の内部にある数珠玉に相当する素子の数は、 無量(はかり知れないほど多い量)であるということと、人間の指で操作する代わりに、あらかじめプログラムされた通りに電気信号によって自動的に操作されるだけのことなのです。すなわち人間の指の動きの速度と電子の移動速度の違いだけのことなのです。
畠田秀峰氏の掲載文で私が一番心に響いたのは、「なぜ、・・・ほとんど意味の分からない短い言葉を、くる日も、くる日も、くる日も、くり返し唱えるということを、説かれるのでしょうか?」と切々たる思いで述べていられることです。実は「華厳経の風景」についての私の実感もまさに上記のことと全く同じなのです。
私が電脳と付き合ったのはパソコンの前身であるマイコン時代の初期からです。当時の性能はきわめて貧弱で、 少し複雑な数式の計算をさせると2〜3日連続して動作させないと答えが得られない事例がよくあったのです。先にも述べましたように、 その間電脳はただひたすらに、足し算や引き算をくり返していたに過ぎないのです。
虚空蔵求聞持法が、 数珠を用いて真言をひたすらくり返すことで、仏の智慧を得る修法であるならば、数珠と本質的に大差のない電脳の方法は、基本的な処理をひたすらくり返すことで難解な処理を成就することなのです。
ところで「華厳経の風景」の画像の基になる決定論的カオスを発生させるための非線形性の漸化式の計算も反復・くり返しそのものなのです。 「華厳経の風景」の画素数は、だいたい700 x 700 ピクセルです。すなわち一画面 49 万画素です。この画面の中の一点(画素)の色を決定するのに、 漸化式を約 100 回(n=100)程度くり返して計算する必要があるのです。
すなわち一枚の画像を生み出すためには、49万画素 × 100回/1画素 = 4,900 万回 漸化式の計算をくり返す必要があるのです。この漸化式自体はきわめて簡単な複素数による式ですが、この式からなぜ「華厳経の風景」が生まれてくるかを、物理的に説明せよといわれても、 私には全くわからないのです。
真言を広辞苑(第五版)で引くと「密教で、真理を表す秘密の言葉」と記されています。私にとってこの漸化式は真言と大差はないのです。ほとんど意味の分からない簡単な漸化式の計算を電脳で無量にくり返すと、 「華厳経の風景」のような画像が生まれるのです。ここで無量とは 4,900万回程度の量です。
例えば、これを求聞持法を実行したとして比べてみますと、人間が一日に2万遍真言を唱えるという不可能に近い量のくり返しを、一日も休まず6年間続けるとしたら、2万回/1日 × 365日 × 6年= 4,380万回 程度です。
しかるに現在市販されている8万円位のパソコンでも、せいぜい20秒で一画像を成就できるのです。
前回の空海に関しての記述で、即身成仏義の偈(げ、詩)の「重々帝網なるを即身と名づく」の前半は、網のそれぞれの結び目の宝石が互いに反射し合い、この無限に反射し合う重重無尽の様相をイメージすることなのです。このためには個々の光の反射を最初から一つ一つ丹念に調べながら、くり返しくり返しトレースする(跡をたどる)必要があるのです。これが求聞持法でいう真言をただひたすらくり返すことに通ずるのではないかと思っています。ただしこれは気が遠くなるようなことで、 普通の人間では不可能なことなのです。
ここで思い起こされるのが「3. 絵心を知らずして描く」で考察した柳 宗悦の著作の文章で、 再度ここで引用させていただきます。
「・・・。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号(みょうごう)を口ぐせに何度も唱えるように、彼は何度も何度も同じ轆轤(ろくろ)の上で同じ形を廻しているのだ。 そうして同じ模様を描き、同じ釉(くすり)掛けを繰り返している。美が何であるか、 窯藝とは何か。どうして彼にそんなことを知る智慧があるだろう。 だが凡てを知らずとも、彼の手は速やかに動いている。 名号は既に人の声ではなく仏の声だといわれているが、陶工の手も既に彼の手でなく、自然の手だといい得るであろう。 彼が美を工夫せずとも、 自然が美を守ってくれる。・・・」
名号をくり返すということは、ろくろを何度も何度も回転させながら作品の形を少しづつととのえていくのと同じと思われます。そしてこの過程で、予期し得ない自然の力が荷担してくれる可能性があるということです。
ろくろと同様に電脳という「他力」の助けを借りると、 空海のいう「重々帝網」のイメージが描ける可能性も生じ、 宇宙の宝庫にある智慧を一身に体得できるのです。まさに道元のいう「自己を忘するるとは、万法に証せらるるなり」なのです。