「華厳経の風景」の展示では、どんな画像が生み出されるかが全く予想がつかなかったので、最初の「蓮華蔵世界」から最後の「仏陀の象徴」までの15編の記述の順番はある程度前後してしまいました。
実際の最終は「心は巧みな画工のようなもの」でして、そこでの考察は、「仏教や人間の心について扱っているのに、 なぜ電脳なの?」という素朴で基本的な疑問に答えることでした。 この回答として、(1)「自然あるいは自然の法則」、(2)「サイバネティックス」という二つの概念を提示しました。
しかし、この問題は「華厳経の風景・エピソード」を開始した後もずうっと私の頭の中でくすぶっておりました。つい最近の「13. 即非の論理 / 電脳の成り立ち」で記述したように、 最近では仏教思想の基本と電脳の基本のそのものが類似しているのではないかと思うようになったのです。
そこで今回は、この第二弾として、仏教思想と電脳の根源的な関係について考察を試みます。
「人間が機械に使われる」とか「機械の歯車の一つのように働かされる」とか「機械的に仕事をする」などよく目にする言葉です。どこか暗いイメージです。特に、繊細(せんさい)な心をもち、緻密(ちみつ)な細工を自負している日本人は、どうも電脳を含む機械に対する一般的な評価は低いように思われます。
しかし上記のような状況は、少なくとも三っ昔(30年)前までのことで、現代のように人件費が高くかつ自動化が進んでいる日本では、このような働かせ方をしたら、会社はたちどころに倒産してしまいます。
人間が機械を効率よく働かせるのも、 逆に機械に働かされるのも、全て人間の智慧に依存していることを忘れてはなりません。人間の無明を棚に上げて、機械のせいにするのは良くありません。
日本人は機械を十二分に活用していながらも、心のどこか片隅では機械をバカにしているのです。 機械をバカにする最大の理由は「心が無い」からです。
私は機械と人間のそれぞれの特長を生かした協同作業は、 現代において最も理想的ですばらしい関係だと思っています。誰もあまり気付かない機械の特徴の一つに、「無作為・平等」があると思います。 すなわち(1)一切の選り好みをしない、(2)途中で放棄したり、あきることがなく調子を変えることはない、(3)全ての対象を均等に動作・処理する、ことです。これらは人間にはできないことで、心を無にしたときの効用そのもので、機械は人間のために大いに貢献してくれているのです。 私は電脳のことを現代の虚空蔵菩薩とよんでいます。
機械に心が無いことは、一見欠点のように思われるのですうが、 実はこれが最大の利点なのです。まさに即非の論理が教えるところです。
仏典をはじめ仏教関係の書籍の中で、 「空」に関する記述が如何に数多く出てくることからも、仏教で心を空にすることが如何に重要であるかということと、人間がこれを達成することが如何に難しいことであるかということを、物語るものと思われます。
空の境地は、 人間の知覚、判断や推理といった理性的な認識作用(これを仏教では「分別」という)を超越したところにあると言われているように、容易に空の境地には達し得ないのです。私もほんとうに理解しているかどうかはあやしいものです。
これらの書籍で記述されているように、この空の境地から導かれる実践的な言葉として、「無分別」、「無執着」、「無作為」とか「平等」などの概念があることは、間違いないようです。
ただし「無執着」と言っても、生きた人間が自己愛の根源としての迷いの心をもつ末那識(まなしき)を無垢(むく)の状態にするには、容易なことではなく多大な修行を必要とするのです。
また「平等」に関しても、 たとえば華厳経の十地品に説かれている仏になるための十地の修行で、この段階では無分別智をしばしば起こしてそれを修することにあるようです。これを唯識でいうと、八識がすべて智慧に転じたときであり、未那識が転ずると平等性智(びょうどうしょうち)となり、これは平等性を覚る智慧のことです(文献1)。
民主主義では人間に関してのみ平等の扱いをしますが、 仏教思想では覚りの境地としての主客未分化(無分別)の状態からも考えられるように、森羅万象の全てが平等に扱われるのです。
先にも考察しましたように、「機械的」ということは、視点を変えれば無分別の状態すなわち「優先順位を一切付けない」ことであり、その機械が動作する範囲では全ての場合に平等に扱われることなのです。
自然科学やこれによって作られた電脳を含む機械は、一切作為はなくクールであり、「ありのまま」すなわち自然の現象を無作為に平等に観察することが基本であるのです。この点、仏教との縁はきわめて良いのではないでしょうか。
ただし心を空にすることは、仏教の最初のステップ(段階)にすぎないのです。ここからが重要なことで、 「空を経験した心」がいよいよ活躍する場なのです。すなわち無分別後の分別を実行しなければ意味はないのです。
人間が自然科学を学んだり、 自然科学で作られた機械によって得られる多くの実験結果を、「ありのままに」観察することによって、自然の本質を探究する修行を重ねることで、 無作為で平等な心の状態で、物事を観自在に見ることが可能になるのです。
自然科学を学んだり研究するのに、現代では電脳や実験装置は必須のものなのです。すなわち人間と機械とが協調することによって、機械というきわめて冷静で特殊な能力を持つ菩薩の御利益を受けることができ、人間はより洗練され、かつ計り知れない能力を得ることが可能なのです。そして無作為で平等な心で新たな分別を見付け出し、創造が生まれるのです。
そもそも機械が人間を堕落させるなどと考えることじたい、人間の無明そのものであって、仏教思想に反することなのです。人間は機械が進歩する以上に智慧を身につける修行が必要なのです。
ブッダがこの世に残した最後の言葉がこれを表現していると思われます。
「では、 比丘(びく;修行僧)らよ、 今や私は汝らに告げよう。 「作られたものはみな移り行くものである。 怠ることなく努め励んで、汝らの修行を完成させよ」」(原始仏典、第一巻「ブッダの生涯」、執筆 / 石上、岩松、畝部、関、早島、(株)講談社、昭和60年4月)。