「華厳経の風景」を2005年3月に立ち上げてから三年経過しました。私自身仏教にのめり込んでしまったせいか、 最初に思っていたよりも進捗が速かったように感じています。 最初の一年は、フラクタルで花を生み出すことに一喜一憂し、次の一年間は、この生み出された花と華厳思想との関係についての考察に悪戦苦闘し、三年目でやっと少し落ち着いて、より広く仏教思想との関連について考察を行うことができました。
今回は、これらを回想し、特に明記しておきたいことを記述します。
「華厳経における花の意味」の「追記」で述べたように、華厳の世界すなわち蓮華蔵荘厳世界(れんげぞうそうごんせかい)を構成する大蓮華は、 幾重もの「風輪」によって支えられていると言われています。この風輪は風の渦のことで、この流体の渦は、普通「対数螺旋(らせん)」であると考えられます。
この対数螺旋は、「「重重無尽」が行き着く世界」で提示した佐藤修一の「自然にひそむ数学」にも記されているように、「黄金比」・「フィボナッチ数列」や「フラクタル」と密接な関係があり、これらは自然の基本的な法則そのものなのです。すなわち天才的な先駆者達が、 自然とまじめに向かい合ったときに、直観的に感知される仕組み(構造)なのです。
この「風輪」を幾重にも重ねると、下図のように、華厳の世界の基本構造が明らかになります。
この渦(対数螺旋)は、一種の「入れ子構造」であり、フラクタル(自己相似集合)の基本です。そしてこの渦を幾重にも重ねるのですが、 このとき渦の回転方向、すなわち時計回りと反時計回りの渦を別々に扱い、それぞれの渦を均等(等角度)に配置してして、この回転方向の異なる二つの渦群を重ね合わせます。
例えば三本の渦を用いて、回転方向を異にした二つの渦群を重ねると、図の中央のような花びらが形成できます。これはバラの花のような感じですが、対数螺旋の数やその形を変えるパラメータを変えれば、もっと単純な蓮の花のような花びらも形成できます。
さらに十五本の渦を用いますと、図の右側のような画像が得られ、これはまさに網の目構造です。
以上、 華厳の世界の象徴的な表現としての花や、 華厳の世界の思想的表現としての、全体(世界)と部分(自己)との関係を具体的に表した網目構造が形成されるのです。そしてこれらは全てフラクタルなのです。
仏教は伝統的な通説のみに安住してはならないと思います。現代は時代の変化がきわめて速いのです。その時代に即した説法や修行の方法があるはずで、これを確立しないと、若い多くの人たちが仏教を理解できません。お釈迦様は「対機説法(たいきせっぽう)」という手法を開発しています。現代のようにほとんどの人が高等教育を受けている状況では、古い説法は通用しないばかりか、迷信と誤解されてもやむおえません。
これを解決するには、 仏教の経典を、現代の学問を通して解説しなければならないのです。これによって、仏教のすばらしさが世界中に発信できるのです。
現代、 我々は西洋文明にどっぷりとつかり、 あらゆる生活においてその恩恵を受け、安住しています。鈴木大拙の時代の前半までならいざしらず、いまさら西洋文明が行きずまったから、これからは東洋の時代などと言える立場ではないのです。
西洋と東洋を対立させる思想は、 仏教の最も嫌(きら)う二分割による分別そのものです。それよりも融合・調和の世界を強調する華厳思想でいきましょう。
仏教は無作為を重視し、この思想の背景には、 自然現象と密接なる関連があります。自然法爾(じねんほうに)という言葉もあります。そこでこれからは自然科学を十分に理解した上で、 自然と向き合い、 仏教思想の解釈を再構築する必要があると思われます。
只管打坐(しかんたざ)という修行の方法は、仏教のすばらしさの一つで、このただ座るだけでも、心を静寂に保ち、この結果として通常ではなかなか気付かないことを、気付かせるきわめて効果的な方法だと思います。ただしこれを行うときに、自然の法則を十分に習得しているか否かで、気付きの内容に大きな差がでるように思われます。 人間にはいろいろな可能性を生み出す能力が宿っていると思われ、これを積極的に引き出すための方便があってもよいと思います。
「華厳経の風景」は、この実証実験のようなもので、華厳経に記されている思想を細部まで実感し、明確に理解できるかどうかは、フラクタルの概念を知っているか否かで、 その解釈に大きな差が生じる場合が多かったのです。
唐招提寺の障壁画など数多くの有名な日本画を生み出した東山魁夷は、 今年で生誕100年にあたりますが、若い頃にドイツに留学し西洋文化を積極的に探求しています。自著の「日本の美を求めて」((株)講談社、1976年12月)の中で『自国の文化だけにこもりきって、 狭い見地からそれを考えることにあきたらない心情をもっていて、しかしまた、西洋の文化におぼれきってしまわない側面ももっている、それが日本の文化の特質のように思われます。』とか『日本人は常に外国の文化を尊敬と親愛をもって、 自国に取り入れ、・・・それを消化吸収して、 日本独自のものを生み出して来ている・・・』と記述しています。
上記の東山魁夷の著書の中に「心の鏡」という随想があります。その中で『風景は心の鏡である。 庭はその家に住む人の心を良く表すものであり、山林にも田園にもそこに住む人々の心が映し出されている。』と記述されています。
「華厳経の風景」の画像は、 人間と電脳との一体化によって生み出されたものですが、 特に最近扱ったテーマとして、 人間と機械との一体化のすばらしさを考察し発信してきました。ここで一体化とは、一体化できるほどの智慧を身につける修行をすることです。 機械(道具)とは、「人間によって作られ、 人間が運用(制御)し、人間の機能を拡張するためのもの」なのです。あえて言えば、 機械は人間の一部のような存在で、 人間の心を写す鏡でもあり、その写像は機械の出力として、 増幅されて外部に現れるのです。
人間が、この機械に無心の境地、悟りの境地で接したら、 機械は菩薩になれ、これに答えて人間のために強力な能力を発揮してくれるのです。逆に迷いの心で接したり、悪用したら、 機械は悪魔に変化(へんげ)し、 人間は害をこうむることになるのです。
以上のように、 機械を介することによって、人間の悟り(修行)の効果が増幅され、かつその機械の出力として誰でも感知できる特長があります。このことは、悟り(修行)の効果とその重要性を、 誰にでも明確に理解させる働きがあります。 「16. 「無作為・平等」/「機械的」という概念」で引用したように、お釈迦様は既にこのことを説いています。『作られたものはみな移り行くものである。 怠ることなく努め励んで、汝らの修行を完成させよ。』
試行錯誤をくり返しかつ直観を働かせ、「石の上にも三年」ともなると、 今回の展示画像のように、フラクタルから生み出される花もかなり複雑な形になります。今までは世界に一つしかない珍しい花模様を生み出す修行に専念してきました。 もうそろそろ、これを卒業し、少し進路を変更したいと考えています。珍しい形だけでは、人の心に訴えるのに限界を感じたからです。
今までは電脳と一体化のための修行だったのですが、これからは自然科学だけでなく、自然そのものと真剣に向き合い、 新たな発見を電脳に取り込む修行をする必要があるように思えます。 自然の何を取り込むかというと、「形」と「色彩」だと考えています。
人の心に感動を与えるのは、複雑な形ではありません。 また色彩にしても、太陽を意識して虹の七色で、かつほとんど無作為で配色してきましたが、 みなさまの中には少しどぎついと感じられたかもしれません。
御存知のように、「形」や「色」の世界も、 「空」同様に「相対的なもの」であって、如何様にも変幻自在なのです。東山魁夷は、 生涯自然と向かい合って、人間の心情と自然とを一体とすうるような「造形」や「色彩」を究めた大先生なのです。
これからは自然と直接向かい合うと同時に、 東山魁夷の作品を勉強し、 新たなる発見に精進するつもりです。