前回の「鈴木大拙「華厳の研究」の研究」では、考察しきれなかったことが多々あり、今回は「その2」に相当するものです。「華厳経の風景」は、仏教思想を構成している数多くの表現上難解でかつ抽象的な概念を、現代的な感覚で考察し、解釈することを目標にしています。
今回の題目ですが、「空」については、いろいろな抽象的な言葉で説明されていて、いまいち捕らえどころがないのです。 空海の言葉を借りれば、言葉だけではなかなか理解しがたい究極の理を、図画を描いて開示することですが、これが「華厳経の風景」のコンセプトでもありますので、今回は少し冒険をしてみました。ご批判をいただければ幸いです。
さて、前回の考察では、大拙のいう「霊的生活」とか「霊性的経験」ということについての検討が欠けています。 そこで今回は、鈴木大拙全集、第七巻((株)岩波書店、1999年10月)の「仏教の大意」の第一講「大智」と第二講「大悲」の著述を参考させていただき、考察を進めたいと思います。 私は、特に第二講の「大悲」が、鈴木大拙の「華厳の研究」の総括のように思えるのです。
『・・・子どもが積木をもって遊んでいるとしよう。箱のなかに入っている積木はまだ何の相互関係もないから、集合にすぎない。ところが、子どもがこの積木で舟をつくったとしたら、もうそれは一つの構造だ。つぎにその子どもが、飛行機をつくりたいと思ったら、どうするだろうか。
そうだね。その舟をいちどバラバラの集合に壊してしまって、初めから新しくやり直すだろうね。舟を一部修正していって飛行機にするより、かえってやりやすいだろう。・・・』
この会話、仏教関係者が聞いたら、「空即是色」とか「無分別後の分別」の話と思うかもしれません。これは、「現代数学対話」(遠山 啓著、(株)岩波書店、1967年5月、岩波新書)の「構造の科学」の一節なのです。バラバラの状態の何らかの集まりが「集合」で、この集合の構成要素の間に何らかの相互関係が与えられて、はじめて「構造」となるのです。
ここで、構成要素間の相互関係は、仏教では「縁起」に対応すると考えられます。「般若経」では、「空」を、すべての事物は他との関係の中にあってはじめて成り立つという「縁起」によって説明されていたようです。
ここで前回展示したような自己相似集合図形を思い出して下さい。この図で内部に存在する大小の個々の形を、現実の世界を構成する事物(「色」)に対応するものとします。すると一目瞭然に、個々の形は輪郭だけで実質はなく、空っぽで、かつこれらは線のみによって繋(つな)がり、相互関係のみで成り立っていることを示しています。この自己相似集合図形は、「空」を表現している構造だと考えることができます。
一見、自己相似集合図形の内部は線で埋め尽くされているように見えますが、これはディスプレーの解像度が低く線に幅があるためで、線の幅が無限に細ければ、縮尺して相即即入を無限に実行できる空間は存在しているのです。
また大楼閣に集まっている諸尊たちやそれぞれの室(各楼閣)も集合です。これらを相似形で表現し、そしてそれぞれ調和が保たれかつ互いに妨げ合わないように配置するという相互関係が与えられたとき、「事事無礙法界」という構造が成り立つことの考察が、前回の内容です。
これらについて、以後さらに詳細に検討します。
『仏教という大建築を載せて居る二つの大支柱がある。一を般若又は大智と云い、今一を大悲又は大慈と云います。 智は悲から出るし、悲は智から出ます。元来は一つの物でありますが、分別智の上で話すとき二つの物であるように分かれるのです。・・・この意味を十分に飲み込んで始めて仏教が分かるのですが、それには華厳哲学を知る必要があります。「華厳経」に盛られてある思想は、実に東洋---印度・シナ・日本にて発展し温存せられてあるものの最高頂です。般若的空思想がここまで発展したということは実に驚くべき歴史的事実です。もし日本に何か世界宗教思想の上に貢献すべきものを持っているとすれば、それは華厳の教説に外ならないのです。 今までの日本人はこれを一個の思想として認覚して居たのですが、今後はこれを集団的生活の実際面、即ち政治・経済・社会の各方面に具現させなくてはならないのです。』
二つのものが一つであるという「霊性的直覚の世界」については、次項で考察しますが、この思想の基となる「華厳経」を、鈴木大拙が如何に高く評価していたかが上記の記述からわかります。「般若的空思想がここまで発展した」の「ここまで」とは、華厳の縁起による事事無礙法界のことと思われます。そしてこの「大悲」の最終の項では、この事事無礙観の現実の世界への応用を提唱しています。
『二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相剋・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きて行くわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものが、畢竟(ひっきょう)するに、二つでなくて一つであり、又一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。今までの二元的世界が、相剋し、相殺しないで、 互譲(ごじょう)し、交歓(こうかん、よろこびをともにわかち合うこと)し、相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつより外ないのである。』
「日本的霊性」(鈴木大拙全集、第八巻、(株)岩波書店、1999年10月)の「霊性の意義」についての一節です。
この霊性的直覚の世界は、「無分別・無差別」の世界ともいわれ、言葉(分別・理性)では、容易に表現できないとされています。この相即即入に基づく霊性の世界を、ある程度わかりやすく表現するものがあります。それは日本でも古来からある「入れ子構造」です。日本では「入れ子構造」は食器などの容器や重箱に利用されていますが、用があるときは、それぞれ独立して自由自在に働き、用がないときは、相即即入して一体化し、一つに納まるのです。『有が無・無が有、無二なるが故に、是の故に常に相即す』なのでしょうか。
『華厳の世界には、視点の自在な移動・転換があります。 関係の中の各々が中心になりうる、という見方があります。』(文献1)なのです。
ここで重要なことは、この入れ子構造をより緻密に、よりなじみよく実行するには、相似形であることが最適なのです。即ち多くの容器を、互いに妨げ合わないように相即相入し、一体化するには、相似形がよいのです。
次に、 精神的な面からの考察になりますが、相対する二つの事象は、分割される以前は同根であり、差別があってはならないという無分別・無差別の概念からも、相似形が好ましいのです。究極では「同一」という心があるのです。
「和を以て貴しとなす」の日本人の性格を、図で表現すると、相似形となるのでしょう。また、大拙の「日本的霊性」の緒言に次のような記述があります。
『日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのです。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被(こうひ、光が広くゆきわたること)して来る所以を、最も大胆に最も明白に明らかにしているのは、 法然・親鸞の他力思想である。』この意味するところは、阿弥陀仏と衆生との関係において、阿弥陀仏と阿弥陀仏の大悲に包まれる衆生との間に、「入れ子構造」が成立するための相似形であることが必要なのです。衆生は阿弥陀仏の名号を称えることで、無心になり、おのずと阿弥陀仏と「相似形」になり得るのです。
また大拙の「大智」の最終の節で次のようにも記述しています。『赤裸々(せきらら)になった人間、社会的地位も勢力も何もない人間、此の人間がもち得る霊性的自覚の故に、「天上天下唯我独尊」と絶叫せられるのです。』
赤裸々とは裸で生まれた赤ん坊のように、そのままの姿で何の飾りのない「無心」のことです。このような人間が自覚する平等と自由自在の境地を、天上天下唯我独尊と表現したのでしょう。無心で森羅万象を受け容れることが、「相似形」なのです。
以上、「霊性的世界」すなわち「無分別・無差別の世界」を「相似形の集まりの世界」と表現することに意味があるのではと考えられます。
我々は分別・理性の世界で生活しています。仏典も分別・理性で書かれています。「般若心経」の最初の文章は、「観自在菩薩は、・・・を「空」と照見して、一切の苦厄を度す」とあります。「いろいろな視点から物を見ることのできる菩薩は、現実の世界の一切の事物(色)を、ある視点から見ると「空」と映り、この視点から人間の一切の苦厄を救済されました」ということなのでしょう。
ここで「照見」という表現がありますが、 「照」には「照らし出す」、「照らし合わせる」とか「映像」という意味があります。
以後、 この「照らす」とか「映す」という言葉を基に考察を続けます。実は視点の転換による「写像」は電脳の最も得意とするところなのです。
鈴木大拙も「映す」という表現は、いろいろな場面でよく使っており、例えば「大悲」の四で、『極楽という霊性的法界は娑婆という分別的世界と相互に聯結(れんけつ)して居るのです。さういうより、むしろ相互に映り合って居るという方がよいでしょう。二つのものとして映り合うのでなくて、一つのものが一つを一つに映すのです。』と記述しています。これはまさに「色即是空・空即是色」を言っているのでしょう。この「映す」は、 仏教でよく使われる「水鏡に万象を映す」とか「海印三昧」などの概念が基になっていると思われます。
この「照らす」とか「映す」という光学的作用は、空間的にどんなに大きいものでも、任意に縮尺して、「相似形」として、どんなに小さな場所にでも映し込むことが可能なのです。
これに何の意味があるかというと、 仏教インド哲学のルーツである宇宙(梵)と自己との密接な関係性(一体化)を自覚できることです。すなわち宇宙全体を自分の心の中に映し出せるのです。 人間は自分の心の中のどこかの空間に、いろいろな視点での森羅万象を映し出すことによって、いろいろな自覚が芽生えるのです。
最近「アラウンドビューモニター」というシステムが車に搭載されています。自分が運転している車の上方の位置から、自分が運転している車全体とその周囲の状況を、見下ろすような映像として、自分の目の前のモニターに映し出すのです。これは電脳による視点変換の技術で実現するもので、車全体とその周囲環境と自分が動かしているハンドルとの関係が、一目瞭然に確認できるのです。まさに仏教の禅語「脚下照顧(きゃつかしょうこ)」です。この意味は、足もとに注意せよなのですが、「真理を外にではなく、自己自身の内に求めよ」の意味(広辞苑)だそうです。
鈴木大拙の言う「大悲の事事無礙法界に透徹(とうてつ)した心境」を理解するには、いま考察している「空」と映る視点をさらに明確にする必要があり、このためには、華厳の縁起の特徴を知ることなのです。この特徴は「視点」の大きな転換です。
私が初めて仏教思想を学んだのは, NHKこころの時代での華厳思想についての竹村牧男先生の講義だったのですが、このテキスト(文献1)の最終章は、特に私にとって、きわめて意義深いものでした。単なる幾何学図形であった自己相似集合図形と華厳思想との関連性に対する確信をより深めることができたことで、「華厳経の風景」を立ち上げる切っ掛けになったことと、さらにこれが西田幾多郎や鈴木大拙の思想と密接な関係にあることを教えていただいたことなどです。この最終章に関しては、既に「すべては自己の究明にあり」で考察をしてますが、ここではもう少し具体的に説明します。
この自己相似集合図形と華厳思想とを橋渡しするものは、「視点」とその「写像」なのです。具体的に言うと「全体から自己を見る」視点と、「自己の内部に自己を含む全体を映し込む」写像です。ここで最終章(文献1)の記述の一部を再度引用させていただきます。
『自己から世界を見る見方をひるがえして、世界から自己を見る見方をとるということです。自己は世界の無限の関係性の中で成立している自己であるとの洞察が、そこに開かれます。自己の一毛孔(いちもうく)に、世界のすべてが宿っているのです。世界のすべてに、自己は関与しているのです。この自覚が開かれたとき、おのずから関係する他者へ配慮せずにはいられない生き方が促されてくることでしょう。慈悲心と一体となった菩提心というものが、おのずから発せられてくることでしょう。』
自己が関与している世界全体から自己を見る視点をとることで、世界と自己の立場との関連性を自覚できた境地においては、自己の心の中には自己を含めた世界全体が映し込まれおり、これが自分と世界とが同一、自分と他者とが同一という究極の境地が生まれる基になるのでしょう。もちろんこの境地に達するためには、 この「矛盾」を克服するそれ相応の修行が必要なのですけれども、これが「空」あるいは「無分別・無差別(霊性)」の世界を見る視点であると考えられます。
「全体を構成する部分と全体とが同一」とか「全体を構成する部分が全体を含む」ということは、言葉(分別・理性)の上でも「矛盾」そのものであり、きわめて難解な文章です。しかし、無分別・無差別(霊性)の世界では、これが「矛盾」でも何でもなく、いわゆる仏教的な世界観なのです。
以上のことが、自己相似集合図形を見れば、一目瞭然に理解できます。すなわち前回展示したような自己相似集合図形で、外側の輪郭とその内部を「全体」と見て、また内側に存在するそれぞれの輪郭とその内部を「構成要素としての部分」と見ます。このように見る限り、ほとんど矛盾はないのです。
ただし厳密にはわずかな差異はあります。これは既に自己相似集合図形を作成する過程を説明していますので、もうみなさまには御存知と思われますが、全体と部分とは、「限りなく近づく」ということです。これはつねに全体を基準として、これを縮尺して、部分に映し込むという作業の繰り返しで、この図形が作成されているからです。すなわち「全体から自己を見て、その結果として、自己を含む全体像を自己に映し込む」というプロセスでこの図形は作られていますので、上記の文章に対応できるのです。また、この図形が成り立つためには、「部分と部分(個々)が同一」である必要があることもすぐに理解できます。
以上、自己相似集合図形と無分別・無差別(霊性)の世界とは、きわめて整合性があるのです。
現実の世界を、普段の分別・理性の視点で見たときが「色」です。これをそれ相応の修行をして、その境地の視点で見ると、「空」とか「無分別・無差別(霊性)の世界」に見えるのです。この「空」とか「無分別・無差別(霊性)の世界」を、もう少しわかりやすく図で表現したのが、この自己相似集合図形なのです。
相似形とは、画像を「照見する」とか「映す」ときに、全く歪みが生じないで画像が再現されることで、「ありのまま」という意味であり、鈴木大拙は、これを「絶対無」とか「絶対空」といっています。
「大悲」の最終、八の最初の一部を引用します。
『事事無礙観の応用とでも云うべきものを申上げて、結論と致します。人間の集団的生活はまた法界の相を宿しています。集団の構成単位は個多の事事に相応するものです。此の中の一個事に何かの変化が生ずれば、それは必ず余他の事事に影響を及ぼすにきまつています。
人間の集団はそれほどに緊密の聯関の上に立っているのです。大海に一つの波が動けば、如何に微小なものでも、全体に及ぶのです。』
世界的規模での人間の集団的生活における相互協調と円融無礙観の実現を鈴木大拙は提唱しています。それでは現代の我々は何をすればよいのでしょう。この示唆が上記に示されているように、仏教思想を理解した個を一人でも多く増やすことなのです。
きわめて幸いなことに、クモの巣のようなインターネットが世界中に張り巡らされ、華厳経でいう「帝釈天の網」の世界が実現しているのです。これを積極的に活用すべきです。