宮沢賢治の世界と「空」の基本構造 (文章)

20.自利利他(じりりた)の楽しみ」で宮沢賢治の思想についての 梅原 猛先生の記述を取り上げました。この夏、 宮沢賢治についてほんの少しだけ勉強しただけなのですが、「空」の基本構造の観点から考察を試みましたので、この感想を述べさせていただきます。

視点の転換のすごさ / 童話『注文の多い料理店』

梅原 猛 著「賢治の宇宙」((株)佼成出版社、昭和60年7月)には、著者の賢治論「新しい時代を創造する賢治の世界観」と賢治の童話「注文の多い料理店」など6遍が収録されています。

「注文の多い料理店」の梅原先生の賢治論の中での解説の一部を引用させていただきます。『鉄砲をもった都会の紳士が猟に出て、一向に獣が取れず、腹をすかしている。そこに料理店があって、いろいろ注文がついている。それを見て、その二人の紳士が、人間の側からいろいろ注文をつけるとおいしい料理にありつけるにちがいないと思って、その注文に応ずるわけであるけれども、実はこの「注文の多い料理店」なるものは、山猫がいろいろ人間に注文をつけ、人間をおいしく食べる料理店であり、注文は人間からではなくて、山猫から出されたものであった。いつも人間側でしかものを考えない人間は、向こうから出された注文を自分の都合のよいように解釈して、危うく山猫に食べられそうになるのである。』

人間の視点から物を見ることを、あたりまえと思っている我々が、 視点を転換したときに起こるであろう「思い込み違い」と「恐怖」をみごとに表現した作品なのです。

賢治の童話を理解する鍵として、梅原先生は『人間と動・植物が一体の世界観』や『生きとし生けるものの成仏』などを挙げています。賢治は、人間ばかりかすべての動植物も、つまり生きとし生けるものすべてが成仏できるという思想をもち、これらはすべて平等に扱われ、人間からの視点のみでなく、動植物からの視点も同等に扱われるのです。

「空」の基本構造が示す通り、この世界を構成している要素としての人間や動物・植物などはみな同じ相似形なのです。そしてこれらの一体化構造です。この世界では(天空や仏の視点からは)、人間だけが他の物と区別される理由はどこにもないのです。

自覚 / 詩『雨ニモマケズ』

前回の展示画像のような自己相似集合図形を見たときに、これが現実の世界そのものであり、この図形の内部の一つの相似形を自己であると見なしたとき、まず何を考えるのでしょうか。

しょせん全体を構成する一つの相似形にすぎない自己を目前にしたときには、「自分とは何なのか」とか「自分は何のために存在するの」という「自己究明」の意識が生じるのでしょう。 ここで、「あ、そうだったのか」と思い起こされるのが、賢治の有名な「雨ニモマケズ」という詩(花巻賢治の会刊行)の後半です。
『・・・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
・・・・・・
ホメラレモセズ クニモサレズ
ソウイフモノニ ワタシハナリタイ』

天空に映し出される世界 / 童話『インドラの網』

この童話は、天沢退二郎 編「宮沢賢治万華鏡」((株)新潮社、平成13年4月)の収録を参考にしています。

「インドラの網」は、まさに「華厳経の風景」のモチーフのような存在で、あえてここで解説する必要はないのですが、この賢治の童話での情景の描写がすばらしいのです。童話の中の私(たぶん賢治のことでしょう)は、ひどく疲れて、秋風と草穂との底に倒れて、夢うつつなのです。ただひとりツエラ高原の空間の中をさまよっていたのです。『 桔梗(ききょう)いろの冷たい天盤には金剛石の劈開(へきかい)片や青宝玉(サファイヤ)の尖った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんとひろわれきれいにちりばめられそれはめいめい勝手に呼吸し勝手にぷりぷりふるえました。』とか『 「ごらん、そら、インドラの網を。」私は空を見ました。 いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛(くも)のより細く、その組織は菌糸より緻密(ちみつ)に、透明清澄(せいちょう)で黄金(きん)で又青く幾億互に交錯し光ってふるえて燃えました。』などの描写です。

これらの天空の描写は、前回の展示画像、正六角形の中に七つの正六角形を相即相入した自己相似集合図形(フラクタル)のイメージに似てないでしょうか。

「空」の基本構造は、 天空から地上の現実世界を見た視点で意識するであろう様相なのですが、それがそのまま天空に反映したような情景が、賢治の「インドラの網」の視覚的なイメージのように、 私には思えるのです。

何の役に立つの? / 童話『サガレンと八月』

上記と同じ本の「童話」の最後に『サガレンと八月』という話が載っています。注解によると「サガレン」は地名でサハリン(樺太(からふと))のことです。この前半の部分を断片的に引用させていただきます。

『「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、 何かしらべに来たの。」
西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私のみすぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも何べんも通って行きました。
「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」私はだんだん雲の消えて青空の出て来る空を見ながら、威張ってそう云いましたらもうその風は海の青い暗い波の上に行っていていまの返事も聞かないようあとからあとから別の風が来て勝手に叫んで行きました。
・・・・・・
・・・あしもとの砂に小さな白い貝殻に円い小さな孔があいて落ちているのを見ました。・・・そしたらにわかに波の音が強くなってそれはこう云ったように聞こえました。 「貝殻なんぞ何にするんだ。 そんな小さな貝殻なんぞ何にするんだ。 何にするんだ。」
・・・・・・
・・・・・・
・・・それらのはなしが金字の厚い何冊もの百科辞典にあるようなしっかりとしたつかまえどころのあるものかそれとも風や波といっしょに次から次と移って消えていくものかそれも私にはわかりません。ただそこから風や草穂のいい性質があなたがたのこころにうつって見えるならどんなにうれしいかしれません。』

私の現役時代は、国のある研究機関で働いていたのですが、その一時期にはコンピュータ技術の進展の「落とし子」のような「フラクタル(自己相似集合)」が物理学会などで大変もてはやされていた時代があったのです。当時先輩格の研究者に、この技術について話したら、「確かに面白い!ただし何の役に立つのかね?」と質問され、答えに窮したことがありました。そのときは「しっかりとしたつかまえどころのあるものかそれとも風や波といっしょに次から次と移って消えて行くものか」私にはわかりませんでした。

「空」の基本構造を見ればわかるように、どんなに小さな相似形でも、その内部に世界全体を宿しているのです。華厳経での表現を借りれば「一つの毛孔の中に、無量の仏の国土が、安住する」なのです。

最初に引用した本での梅原先生の賢治を理解する鍵の一つに『賢治の独自の宇宙観』という項があり、そこで『心象の中で今、現に存在しているものは、かっていつかどこかで現実に存在していたものにちがいないというのが賢治の考え方である。・・・

東北の一端に起こった出来事は、決してこの地方でこの時代にしか起こり得ない出来事なのではない。それは他の場所で他の時代に起こった出来事でもあり、またあるべきなのである。・・・
・・・彼の想像力は人間の心の深部の奥深く隠れた、深い心理を掴(つか)みだし、それを見事に具現化するのである。

その意味で、賢治は自分の童話を、それは正しい人間理解に基づいた童話でありその意味ですべての人間に理解できるものと考えるのである。・・・』と記されています。

「空」の基本構造で、各個が内包する全体の世界は同じ相似形であることからも、上記のような考えも理解できそうです。さらに全体の一要素にすぎない個といえども、全体を変え得る潜在能力があるのです。現在、賢治の作品が多くの人に理解されきわめて高い評価を得ているのも、これを物語るものでしょう。

小さな貝殻といえども、この世の中で何の役にも立たないものなど無いはずです。 言うまでもなく、人間の欲望を満たすために役立つもの以外に人間の心を豊かにするために役立つものもあるのです。

如来蔵思想」で少し考察していますが、この思想の日本での発展、『山川草木悉皆(しつかい)成仏』と言われるように一切のものに仏は宿っているのです。それを洞察し役立てることができるかどうかは、 まさに視点を自在に変えうる能力いかんにかかっているのです。

2008.9.15