今回の展示画像について説明します。前々回(「22. 鈴木大拙「華厳の研究」の研究」)の展示画像の一つである正六角形の内部に正六角形を六つ相即相入した自己相似集合図形では、その中央の部分に十分な空きが存在しています。 そこで今回は、この部分にもう一つ正六角形を追加して、合計七つの正六角形を相即相入したときの自己相似集合図形です。
このような図形を電脳で描かせるための考え方は、「5.リカーシブ(再帰的)処理という概念」で説明しています。これは対象を自分の外に置かないで、対象の中に自分を入れ込んでしまうような概念なのです。言い換えると、対象を自分から見る視点に置かないで、自分の内に自分を含む対象を見るような視点なのです。
もう少し具体的な例は、 前回話題にした、車に搭載されているアラウンドビューモニターです。今回はこの視点をさらに考察します。何らかのテレビの実況放送中、その画面が映っているテレビ受像機を、テレビ局のスタッフが実況しているテレビカメラで写したら、テレビ画面には何が映るのでしょう。普通に想像したら、画面にはテレビ受像機が映り、その受像機の画面には、また受像機が映り、・・・と、受像機がどんどん縮尺されて無限に映っていくのです。
これはまさに「入れ子構造」そのものです。この原理は自己相似集合図形を作成するのに応用でき、これを用いると今回の展示画像を描かせることなど朝飯前の仕事なのです。
すなわち、自分(見るもの)と対象(見られるもの)とが一体化したときの一つの様相が、自己相似集合図形なのです。一つと表現したのは、もっと不思議なことが起こるのですが、これはいっの日にか考察します。
前回の「23.「空」の基本構造」で取りあげた「般若心経」の最初の文の解釈では、「視点」に着目して、「視点の転換による済度」として考察しました。 このまとめを表1に示します。
自己から他者を含む世界を見る視点 | 世界の上方(天空、宇宙、仏)から自己や他者が関わる世界を見る視点 |
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「色」(分別と差別)の世界 | 「空」(無分別と無差別(平等))の世界 |
主客二元的な対立が生まれる。 当然、自己中心的な執着、欲望、怒りなどの人間の苦の原因となる煩悩が芽生えます。この苦を「度する」には、視点の転換が必要となります。 |
「主客不二・物我一如」の境地が生まれる。 大局から見れば、世界を構成する個々の人や物に対して、区別など付けようがなく、全く同等と見るのが基本となるのでしょう。すなわち個々は世界を構成する仲間であり、そこに倫理観や慈悲の心が芽生えます。 この世界観を図で表現したのが「空」の基本構造です。 |
大局的立場あるいは仏の立場から見た視点からは、自己も他者も甲乙つけがたい同じ人間なのであって、すなわち相似形なのであって、そこには執着、欲望や怒りなどの煩悩は存在しないのです。これら煩悩は自己から他者を含む外界を見た視点のときにのみ生じるのです。この大局から見た視点からは、全体を構成する同じ人間だからこそ、お互い助け合って、切磋琢磨(せっさたくま)して、互いに自己を高めようとする「慈悲」の心が生まれるのです。私はこれが「空」の境地であろうと思います。「色」と「空」との違いは「視点」の違いだけなのです。
ただしこの大局的な立場の視点から見られるようになるには、かなりの修行を必要とします。これを実行するには、自己や他者が関与する世界を、自己の内部に映して(イメージして)、それを自己が見ることになるのでしょう。このとき、曇りや歪みを生じさせることなく映し込むために、それ相応の修行が必要なのです。もう少し具体的には、道元の言うとおりで、『仏道をならふといふは、・・・自己をわするるなり。・・・』なのです。
この世界観を図で表現したのが、「空」の基本構造としての自己相似集合図形なのです。
展示画像のような自己相似集合図形をどのように解釈するかの基本的な概念を表2に示します。
外側の輪郭とその内部 | 内側に存在する各輪郭とその内部 | |
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基本概念 | 全体 一般(普遍) 包括するもの 世界 | 全体の構成要素としての部分 特殊 包括されるもの 個物・自己及び他者 |
世界観 | 世界の上方から見た視点としての自己や他者が関わる世界 | 世界(宇宙、仏、自然)と自己との一体化構造 | − − − | 自己と他者との一体化構造 |
曼茶羅は宇宙(大日如来)と自己の一体化を感得するための手段として用いられるものですが、曼茶羅の構図の一つに自己相似集合図形に近いものが存在していることは、自己相似集合図形は、「空」の境地を得るための図形といえるのでしょう。
自己相似集合図形の内側に存在する相似形は、全体を構成する要素としての個を表していますが、個が変われば個の集まりとしての全体も同時に変化し、そしてこれによって全体を内包する各個も再度変化するのです。これを無限に繰り返すことで全体と個の間の「矛盾」は徐々に解消され、一体化していくのです。言い換えると、全体との関係においてそれぞれの個が存在し、個は他の個々との関係においてのみ成立する世界なのです。
一切の相似形は外形(輪郭)だけで、実体はないと考えることもでき、仮の集合とも考えられます。 または「有」でもなく「無」でもなく、どちらにも属さない「中(ニュートラル)」の状態ともとれます。
次に自己と他者に着目すると、自己の対象としての他者を含む外界は、自己と同じ相似形です。すなわち一切の対象は自己と同じ相であって、二元的対立の生じない、不二の世界です。このような一体化構造は、相互に無礙(むげ)の関係にあり、調和のとれた秩序が成立しています。 すなわち事事無礙法界の成立する世界でもあるのです。
「空」の基本構造とは、実体のない輪郭だけで形成され、二元的対立を克服するための全てが一体化した調和と秩序のある構造なのです。この一体化構造ゆえに全ての煩悩が滅せられると同時に、他者への慈悲の心を自覚できるのです。
「華厳経の風景」での花の配置の典型は、一つの大きな花を中心にして、その周りに相似形の中くらいの花が秩序正しく配置され、さらにこの中くらいの花の周りに相似形の小さい花が配置されるという繰り返しの構造です。「華厳経における花の意味」で記述していますが、 花は仏や菩薩のおられる場所(座)を意味し、花の大きさは修行の成果(仏果)を表していると想定して、考察を進めてきました。
今回の展示画像のような自己相似集合図形の内部には、大きさの異なる相似形が多数存在しますが、これらを全体(世界)を構成する要素(個)と解釈するとき、この大きさは、 物の場合は「大きさ」、「規模」を意味し、人間の場合は「修行の完成度」、「智慧の量」や「人格としての水準の高さ」のようなことを意味するのでしょう。
大きさは量を表しますが、量的変化と質的変化は相互に転化しますので、質的変化と考えてもよいのです。
我々は少しでもより大きな自己になるために、日常的に努力し、精進しているのです。相似形の大きさは、これを意味するものと考えてよいと思われます。
「自己の究明」とは、今回の展示画像の自己相似集合図形の内部の一つの相似形を自己であると認識することなのです。
これでは世の中、面白くも、おかしくも、何ともなく、まさに機械の歯車の一つではないかと思われるかもしれません。ここで重要なことは、機械の歯車は寿命が尽きるまで、固定された状態が続くのですが、 人間の世の中では、その位置(立場)や大きさは、人間の努力や運しだいで変わり得るということです。修行によって、ひと回りもふた回りも大きく成長できるのです。
「「空」の基本構造」で、「基本」と呼んだのは、この幾何学的な自己相似集合図形のような、構造が簡単で静的なもので、 仏教の世界観を誰でもが理解しやすい図形だからです。実際の「空」はより神秘的(難解)でもっと奥深いのです。
もうみなさまには御存知のように、このような簡単な幾何学図形ではなく、より創造的で動的な挙動を呈する「華厳経の風景」のような画像が存在するからです。このような画像がなぜ生み出されるかについては、私自身修行が足りず、いまだわかっていないのです。
これに関し、鈴木大拙の「空」からの創造についての記述が、きわめて印象的なのです。いままでも検討していますが、鈴木大拙の洞察力はすごいものがあり、未来を見越したような文章によく遭遇するのです。その一例が「11. 「空」からの「創造」/ 電脳三昧 」で引用した文章ですが、 決定論的カオスの挙動など知るよしもなかった当時、何故あのような文章が書けたのであろうか、私のような凡人には理解しがたいのです。
多少重複しますが、鈴木大拙の著作の中で私の最も好きな「仏教哲学における理性と直観」(鈴木大拙全集、第十二巻、(株)岩波書店、2000年9月)の最終の部分を引用させていただきます。
『・・・空は、静なるものとしてではなく、動なるものとして、いや、むしろ同時に静であり動であるものと考へられなければならない。般若の場は、止観を通じて創造し、創造を通じて止観するのだ。
こういうわけで、般若においては、永遠の進展があり、而も同時に決して変ずることのなき統一の情態があるのだ。・・・論理的にいえば、般若の創造性は限りない矛盾の連鎖を蔵するのだ。 ありとあらゆる形および仕組みにおいて、理性の中に般若が、般若の中に理性があるのだ。ここに般若と理性とが、無限に錯綜し、重重無尽に浸透しあう情態が生じてくる。・・・この最も徹底した相互浸透、 理性と般若とが表現することもできぬほど錯綜していながら而も秩序を維持しているというこの囘互(えご)の情態、これこそ般若自らの手で編んでいく網なのである。ここでは分別理性が主役となってはたらくのではない。それで般若直観のある所、このすべての神秘が不可思議を演ずるのだ。』