空海 /「華厳経の風景」の元祖

宇宙遍路

若き日の空海 / 宇宙・自然と一体化

12.彼岸 / マンデルブロー集合」で記述したように、波立った理性の「海」から断崖絶壁の「彼岸」に到るには「飛躍」が必要なのです。すなわち飛躍して「空」を体感しないと「彼岸」には到達できないのです。まさに相対する空と海あるいは宇宙と自己との融合を思い描いていたのは、四国の室戸岬の洞窟で修行をしていた若き日の空海です。

時は西暦790年頃、若い空海は四国の山々を駆け巡り、断崖絶壁をよじ登ったりし苦行をし、または室戸岬などの海辺で空と海との融合を体感したりして、大自然に囲まれている中での「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という難行苦行を実践し、自己と宇宙・自然との一体化の境地を体験したものと想像されます。

この虚空蔵求聞持法の詳細な意味は、私には知るよしもありませんが、私なりに現代風に解釈すれば、大容量メモリーを内蔵する電脳と対話して、無量の智慧や必要な記憶(情報)を自在に引き出す方法のことに対応すると思われ、若き空海がこれに悪戦苦闘している様子が想像できます。

山野や海辺を駆け巡った修行の経験が、後に四国八十八カ所の遍路の構想につながります。そしてこれが現在、電脳空間での遍路の風景としての「華厳経の風景」へと受け継がれるのです。

曼茶羅(まんだら)

空海が中国から帰って西暦806年に朝廷に報告した「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」という巻物に曼茶羅の基本概念が記述されています。

これに関し、真鍋俊照 著「空海のことばと芸術」(日本放送出版協会、平成14年10月)に詳細に解説されています。以下、その要約を断片的に引用させていただきます。

「真理(真如)とは、ことばあるいは文字でそう簡単にあらわすことはできませんが、しかしことば、文字なくしてその真理をあらわすこともできないのです。つまり真理は、色すなわち現象界のものを越えたものだけれども、現象界のものを通して初めて悟ることができるのです。・・・

とくに真言密教は奥深いもので、文字では表現することは難しく、かりに図画を描いて悟らない人たちに開示するのです。・・・

密教の教えの最も肝心な要点は、文字で書くことよりも図像で描き示すことで、両部曼茶羅にその根拠があります。」

言葉(文章)だけではなかなか理解しがたい華厳思想を、図像で表現しようとした「華厳経の風景」の試みを、なんと西暦806年に空海が提唱していたことは、まさに驚きです。「華厳経の風景」の先駆者は空海だったのです。

そして曼陀羅の構図はきわめて創造的で、これを宇宙(全体)と自己(部分)とが融合(一体化)するためのイメージを喚起する図像として用いたことは、現代の科学でもその合理性を十分評価できるものと思われます。(参照「相即・相入/事事無礙」

「機械との一体化」の意味

前回、機械と一体化することの重要性について考察しました。悟りの境地に近づくために、宇宙や自然と一体化することは理解できるが、機械と一体化するとは、何たることとお叱りを受けるかもしれません。

機械とは人間が作ったもので、最近は人工頭脳などを内蔵し、人間に近い存在になりつつありますが、基本的には前回記述しましたように、少なくとも人間特有の自己愛の根源としての末那識(まなしき)は存在しません。とくに自己中心的な作為を目論んで作られたものでない限り、きわめて「純粋」なのです。

人間と機械との一体化の例は、古くは楽器があります。以前に記述しましたが、中国での「琴馴らし」という話に出てくる竜門の琴と名手伯牙(はくが)の例です。また柳 宗悦が発見した「無作為の美」を生み出す陶芸におけるろくろや織物における織機(しょっき)などでしょう。たとえ凡人であっても、これらの機械と一体化することによって、いつの間にか無心になり、天才をもしのぐ作品を生み出すことが可能になるのです。

機械と一体化することは、人間では不可能な機械のもつ特別な機能を十二分に引き出すことが可能なことと、人間を無心にさせる効果もあるのです。すなわち機械と一体化するとは、自我を忘れて機械と調和しながら相互作用することで、飛躍的な相乗効果を生み出すのです。

ここで再び空海に戻りますが、空海が提唱した曼茶羅を、悟りを得るためのツール(法具)と考えてもよいのではないでしょうか。また大変恐れ多いことですが、人間が作った仏像も、人間の心を清浄にし煩悩を滅却させるための宗教的あるいは芸術的装置と考えてはいけないでしょうか。

曼茶羅や仏像と一体化することは、空海が若い頃に体験したような山野を駆け巡る山岳修行などをしなくとも、寺の道場で宇宙や自然と一体化できるのです。すなわち直接大自然に触れなくても、曼茶羅や仏像を介して大自然と一体化できるのです。それでは電脳という機械を介すると、どんな利点があるのでしょうか。(参照「決定論的カオスによる覚醒」

「即身成仏義」/ ネットワークをイメージする

即身成仏(そくしんじょうぶつ)とは、今の身体のままで仏になる(悟りを得る)ことです。空海が天才であることは、空海の代表的な著作である「即身成仏義」や「秘密曼茶羅十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の記述からも分かる通り、華厳思想を十分理解し、それをきわめて高く評価し、その重要性を提唱したことです。

文献1の第十一章の「空海の密教と華厳思想」の項に即身成仏義の内容を表す偈(げ,詩)について詳細な解説がなされています。

宇宙(大日如来)と自己との関係を、網全体と網の目の一つのような関係で一体化しているイメージを抱くことで、それぞれの己が宇宙と調和をともなって互いに融合していることを体感できれば、悟りの境地に近づけるのです。

曼茶羅の前で、三密(さんみつ)、すなわち手に印を結び、口で真言を唱え、そして心を瞑想によって統一し静寂に保てば、曼茶羅の宇宙と融合でき、即身成仏するということのようです。

この偈で注目すべきは、前半の最後の部分(第四句)の「重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく」という文章です。この「重々帝網」は華厳思想の核心とも言うべきもので、詳細は「因陀羅網」や「「重重無尽」が行き着く世界」を見て下さい。

これはインド神話にもとずくもので、帝釈天の宮殿に張り巡らされている羅網(らもう, 宝石を連ねた網)の網の結び目のそれぞれの宝石は、互いに反射しあい、この無限に反射し合う重重無尽の様相を示すもので、各々の宝石(己)は網によって宇宙全体につながっている関係にあることの喩えなのです。

このような網の目構造での、多重に関わり合う関係をイメージでき、それぞれの己は同等でかつ全体として調和のとれた世界を自覚したとき、悟りの境地に到るということなのでしょう。

ただしこのことは概念としてはある程度理解できても、宝石の多重反射を無数に繰り返したときの様相を明確にイメージすることは難しいのです。

普通の人間には無理でも、電脳という「他力」を借りれば、ある程度単純化することで実現(シミュレーション)できます。電脳を用いることで、空海が提唱した即身成仏の境地としての重々帝網のイメージを具現化することが可能となるのです。そしてこの結果が「華厳経の風景」そのものなのです。

四国遍路 / 電脳空間の巡礼

同行二人(どうぎょうににん)という言葉通り、四国八十八カ所をさまよい歩くお遍路さんが、いつも空海と一体化することで、「空」と「海(現実の荒海)」の融合の境地に近づこうとすることなのです。

科学技術全盛の21世紀の現在、宇宙や自然はもとより、あらゆる図画はテレビや電脳のディスプレイを介して見る時代になりつつあるのです。つい最近、月探査衛星「かぐや」を介して、月の表面から地球の鮮明な輝きを見ることができました。

曼茶羅や仏像を前にしての禅定(座禅)は、虚空蔵菩薩の化身ともいうべき電脳と一体化して電脳のメモリー空間(ワーキングエリア)をさまよいたずね歩くことに対応できるのではないでしょうか。「華厳経の風景」は、いわば四国八十八ヵ所の遍路の現代版で、電脳空間での遍路の風景なのです。電脳空間はまさに仮想(虚空)の世界です。仏教の世界である、現実の一切のものが「空」という実体のない仮有(けう)の世界と変わりがないのです。

21世紀は宇宙の時代の予感もします。四国八十八カ所の遍路では小小規模が小さくなりました。展示画像は、電脳三昧によって生み出された画像の一枚で、まさに宇宙船による宇宙空間での遍路の情景をイメージできないでしょうか。

2007.11.19
(追記)

誰の作かわかりませんが、ソフトウェアの重要性を表現するときによく用いられる「コンピュータ ソフトなければ ただの箱」というのがあります。

これに関し、大変興味深い空海の表現があります。曼茶羅のところで提示した真鍋俊照の著書の第四章の「宇宙は知識の宝庫」の項に記述されている一部を以下に引用させていただきます。

「・・・「乾坤(けんこん)は 経籍(けいせき)の箱(そう) なり」(性霊集(しょうりょうしゅう))、つまり、天地は経典の入れ物である。・・・すべて膨大な知識が、ちょうどお経のような、あるいは膨大な書物と匹敵するぐらいの考えが隠されており、それは同時に箱であるというのです。

空海の「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」という書物があります。鑰は鍵のことです。 つまり宇宙はそういう知識の宝庫である。その宝庫の蔵を鍵で開けることによって、自分がそうした知識と対面することができるのです。この時代に、スケールの大きな宇宙空間、あるいは宇宙そのものを、人間の智慧、知識と同体であると考えたのは、空海の非常におもしろいところだと思います。・・・」

上記の引用文で「宇宙空間」は膨大な智慧を蔵するための入れ物(箱)で、ハードウェア、「鍵」は悟りを得るための修行の方法、すなわち特別な知識を引き出すためのソフトウェアです。空海は鍵、ソフトウェアの重要性を述べていると思われます。また「宇宙空間」は現代風には電脳の記憶装置と考えられます。

空海の頭脳が、いかに現代に即しているかにおどろかされます。

2007.12.3